the end of an era

You are free to be who you are.

アイドルはなぜ「物語」を失うのか?あるいは、劇場版『ラブライブ』はなぜ失敗作と評されざるを得なかったのか。

 タイトルがオマージュなのだが、これにタイトルだけで気づいた人はいるのだろうか。

 4年ほど前、『ラブライブ!The School Idol Movie』(以下、劇場版)の公開後、この映画に対する批評記事が話題になった。おりあそ、という方の「アイドルはなぜ魅力的なのか? あるいは、劇場版『ラブライブ!』はなぜ失敗作なのか。」という、当時の3次元アイドル論と、劇場版を比較し、劇場版の物語性のなさを指摘した記事(以下、おりあそ評)である。

当時、筆者も劇場版を見た後にこの記事を読み、納得した記憶があるのだが、2019年現在から、この記事を振り返って、アイドルの物語性について語ってみたい。

 

 1990年代前期~中期の「アイドル冬の時代」とも呼ばれた時代の終焉、つまりアイドルが再び注目されるようになった大きな契機として、『ASAYAN』という番組の「女性ロックヴォーカリストオーディション」がある。この番組で、オーディションに落選した数人が、CDを5万枚手売りするというメジャーデビュー条件を課され、その条件をクリアし、「モーニング娘。」としてメジャーデビューする過程が世間に認知されていく。

 このあたりのことや、次に述べる「AKB48」の選抜総選挙などを指して、よく「リアリティーショー」という表現がなされるが、そこで生まれるのは「やらせ」が含まれるような「物語」では人を惹きつけることはできなくて、一方で「ドキュメンタリー」と言えるほど事実をすべてありのままに映し出すものではない(あるいは明示されてはいるが介入がある)、という意味において、「ドキュメンタリー」と「物語」の間にあるようなものである。このことは現実のアイドルを語る上では重要だが、2次元アイドルを語る上では大きな意味を持ちにくいので、ひとまずおりあそ評の表現を借りて、総称的に「物語」と呼ぶことにしたい。

 ともかく、その「物語」性が、「冬の時代」以降の女性アイドルを象徴するものであると言われている。この「物語」性は、「モーニング娘。」の次の時代のアイドルとして生まれる「AKB48」には、より強く見られる。観客たった7人の劇場公演から始まったアイドルが、劇場を含めた「現場」からファンを獲得していき、国民的アイドルとなっていく過程、そしてその中でのセンター争いの過程としての個人の努力と成長の過程は、「物語」としての性質がある。その「物語」の一つとして、指原莉乃の「物語」がある。大分のハロプロオタクとして育った彼女が、自身もアイドルを志し、独特のキャラとバラエティーへの適応力を武器に、グループ内でも成長していこうとしていた矢先に、過去のスキャンダルが発覚したために「HKT48」というグループへと移籍させられるも、アイドルオタクとしての感覚を使いながらグループを導く役割を果たしていく中で、信頼を取り戻し、ファンを再獲得していき、(2013年の)総選挙1位という立ち位置まで上り詰め、AKBを代表する曲とも言えるようになった『恋するフォーチュンクッキー』のセンターとなる。この過程は、「物語」と言うに相応しいものである。同じように、2013年頃までに主要メンバーとなったメンバーたちには、こういった「物語」が確実にあった。グループとしての「物語」性に、選抜や選抜総選挙という装置によって個人の「物語」性が加わることで、「AKB48」というグループは力を強めていった。

 「AKB48」の登場(2005)からしばらくして、「ももいろクローバー」(のちに同Z)が2008年に結成される。このグループにも、紅白出場や武道館でのライブ、その後には国立でのライブという「夢」が設定・共有され、それを目指す彼女たちには、「物語」が生まれていったと言える。実際、2012年、紅白歌合戦において『行くぜっ!怪盗少女』が、既に脱退していた早見あかりの名前を含む6人の名前を言うバージョンで歌われたことで、6人で紅白の「夢」を叶える、というシーンは、この「物語」を象徴した出来事と言ってもいいだろう。

 

 さて、ここで話は指原莉乃に戻るが、彼女が推していた熊井友理奈亀井絵里に対して、どういうアイドル像を求めていたか、それをネットの海を彷徨う資料から推し量ることができなくはない が、ここでは、彼女がプロデュースしたアイドル、「=LOVE」を見ておきたい。もちろん、3次元の人間が関わればそこに「物語」のきっかけは生まれるし、それを見せようとした場面がないわけではないだろう。しかし、アイドルグループとしては、ライブパフォーマンスを中心として設計されていると言うことができる。加えて、山口百恵や「モーニング娘。」に憧れていたという乃木坂46高山一実は、「Yahoo!ニュース 特集」の取材で、理想とするアイドルの特徴として、パフォーマンスを挙げている。

 このように、「モーニング娘。」をはじめとするハロー!プロジェクトのアイドルたちは、ライブにおいてパフォーマンスを完璧に見せるというイメージを、その次の時代に続くアイドルたちから持たれていると推測することができる。

 テレビに映る「水面より上側」のみを見ている限りにおいて、「モーニング娘。」は徐々にその「物語」よりキャラ性に焦点があたるようになっていき、さらには、パフォーマンスに焦点があたっていった。そして、AKB48グループについても、その傾向がある。もちろん、例えば指原莉乃が、「HKT48」を率いる存在や別のアイドルのプロデューサーとして成長する姿を物語ということができなくはない。しかし、それをアイドルとしての「物語」と言えるかどうかは、疑問が残ると言わざるを得ない。アイドルを象徴するとも言える「物語」は、アイドルグループという「箱」が長く続けば続くほど、語られにくくなっていくのだ。

 

 ここで、おりあそ評における、「穂乃果以外の8人を」「真剣に書き分ける気がなくなっている」という評を、2019年現在見返してみると、そこには既視感がある。それは、「欅坂46」における「平手友梨奈とそれ以外の20人」という表現を見ているからだろう。たしかに、冠番組『欅って、書けない?』においては、21人それぞれのキャラや物語は映し出されてはいる。しかしながら、(少なくともシングル表題曲については)歌詞世界やパフォーマンスにおいて、平手友梨奈以外の20人を、映し出し分けることはできていない。

 「欅坂46」というアイドルグループの特殊性を、ここで2点挙げておきたい。まずひとつが、『サイレントマジョリティー』による完成された世界観のパフォーマンスでのデビューが鮮烈だったことだ。逆に言えば、売れるまでの下積みや苦労といったものをファンと共有する時間は、ほぼなかったと言ってもいいだろう。そしてもうひとつが、圧倒的なセンター・平手友梨奈の存在である。彼女の表現力は圧倒的で、『乗り遅れたバス』を除けば、センター以外でパフォーマンスをすることは今までなかったはずだ。全員選抜が維持されたことも相まって、センターや選抜入りを目指す個人の物語、というものが語られることも少ない。

 実は、アイドルに求められていた「物語」とは、主にアイドルになりたかった人がアイドルになるまでの、そしてアイドルになった人が葛藤などの中で成長し、グループの中心となっていく、あるいはグループ全体が売れていくまでの成長過程のことであって、成長した後にあるのは、日常に組み込まれた、職業アイドルとそのファンとしての生活となるのではないだろうか。そう考えると、成長した後のアイドルを、次の世代のアイドルが理想とするのは、自然なことであるように思える。

 ここで気をつけなければいけないのは、「物語」を重視するファンと、パフォーマンスを重視するファンがいるということであって、成長した後のアイドルは、そのどちらに対しても受け入れられるようにすることが必要となる。 

 

 これらの議論を経て、『ラブライブ!』に戻って、劇場版は、いったいなぜ「物語」性のない展開とならざるを得なかったのだろうか。まず、アイドル的「物語」の展開としては、「μ's」は既に成長した(ラブライブ!で優勝した)アイドルであり、その先には、指原莉乃の運営側としての成長の例を見ても、「物語」は存在しない。つまり、既に成長したアイドル「μ's」にとって、「スクールアイドルの未来」という課題とそれによって開かれるフェスティバルは、アイドル的な「物語」として重要な出来事にはなり得ない。

 しかし、これだけでは十分な説明にはならない。『ラブライブ!』は、少なくとも1期においては、女子高生9人の絆と成長を描く、いわば青春群像劇でもあったはずだからだ。では、劇場版がどうして青春群像劇たり得なかったのか。筆者の考えは、劇場版において「μ's」が既に十分なアイドルだから、だ。

 

 同じく青春群像劇とは離れていく「欅坂46」(の2期生加入まで)を例にとって話したい。「μ's」が9人で「μ's」だ、と言われることがあったように、「欅坂46」も、21人で「欅坂46」だ、とか、21人の絆だ、とかいう評を目にすることはある。絆という言葉は、現在では人と人の支え合いという意味で使われるが、本来はしがらみや呪縛という意味で使われていた言葉である。この2つの意味が同じ言葉に付与されていることは、この2つが表裏一体の関係であることに他ならない。もちろん、理想論として、支え合うことによってお互いを高める一回性の出来事の連続が起きえないわけではないだろう。しかし、それを人は絆とは呼ばないであろうし、2人の関係ではなく、9人や21人の関係となれば、連続的な関係になるだろう。

 もちろん、「μ's」や「欅坂46」に本当に絆があったかどうかを検証する術はない。しかし、『ラブライブ!』1期最終話の再結成までの過程や、「欅坂46」が完成された世界観のパフォーマンスを作っていくまでの過程は、そこに絆が生まれていると思わせるに足る要素ではある。

 先に、成長した後のアイドルは、「物語」を重視するファンにも、パフォーマンスを重視するファンにも受け入れられる必要がある、と述べた。「物語」を重視するファンにとって、一旦生まれた絆が壊れるということは、好ましいことではない。もちろん、現実世界においては、人間が怪我をしたり、事情によって活動休止や卒業をせざるを得なくなったりといったアクシデントがあるので、そう一概には言えないのだが、それでも、微修正を加えながら、絆が維持されていく、という世界観のほうが受け入れられやすい。その意味で、バラバラな個人が再結成されるまでの過程を描く、というような青春群像劇のあり方は、成長した後のアイドルには受け入れられにくい。

 そして、中心となる存在として、高坂穂乃果平手友梨奈がいることが、それをより強固にする。絆のある集団の中心となる存在に反抗することは、現実としては起こりえないわけではないが、「物語」としては受け入れられにくい。だからこそ、「欅坂46」の卒業が、AKBグループや「乃木坂46」のそれと異なって、華やかなものにはならないのではないだろうか。

 

 ここまでで、劇場版が「μ's」の物語として作られることは困難であったと言える。では、高坂穂乃果ひとりの物語としてはどうだろうか。もし、ニューヨークで高坂穂乃果が遭遇する謎の女性シンガーが「未来の穂乃果」であるという説を受け入れるとするならば、劇場版のストーリーの共通点は、「未来」への志向である。しかし、この説を受け入れるということは同時に、穂乃果は将来シンガーになるということを認めるということでもある。このとき、ニューヨークで展開された高坂穂乃果の未来を暗示するストーリーと、スクールアイドルのフェスティバルを開きスクールアイドルの未来を予感させるストーリーは、その先にある未来においても交差することはないであろう。卒業式の後、という条件において、ニューヨークという異国の地でのライブと、スクールアイドルの未来のためのフェスティバルという題材を選ぶことは、ごく自然であるように感じる。

 このとき、2つのストーリーの未来が交差するような物語を見ることはできたのだろうか。ここでまた、話を現実世界のアイドルに戻したい。「HKT48」の指原莉乃は、AKBグループの顔とも言える存在となった後も、「HKT48」を率いる存在や別のアイドルのプロデューサーとして成長していく。これは、アイドルの「物語」ではないと先に述べたが、一方で確かに物語ではある。そして、指原莉乃に率いられる側のアイドルには、実際には先に述べたように「物語」はなくなっているのだが、秋元康に率いられた「AKB48」にも、前田敦子大島優子高橋みなみなどの初期メンバーに率いられた指原莉乃にも、アイドルとしての「物語」があったことを考えれば、「物語」性のあるストーリーを想定することはできる。ここに、成長した後のアイドルの物語と、成長過程にあるアイドルの「物語」の交差を見ることができる。しかし、他の元メンバーとアイドルには、共演する機会が稀にあるとはいえ、元メンバーがアイドルに触発されることはまずないし、物語の交差があると言うことはできない。

 翻って、『ラブライブ!』の世界観には、アフターストーリーである『ラブライブ!サンシャイン!!』において、憧れの存在として「μ's」が描かれてはいるが、直接的なプロデュースや関係性はない。「μ's」も、スクールアイドルであり、9人でこそ、という理由から、箱を維持して継続していくという選択肢を選ばなかった。この時点で、劇場版の2つのストーリーの交差を想像することは、非常に難しい。

 

 結局、劇場版の脚本に瑕疵があるというよりも、2期の続きとしての劇場版の形としては、「μ's」が9人の絆によって結ばれ成長したアイドルであったがゆえに、おりあそ評のように評されざるを得なかったのではないだろうか。そして、アイドルは、「物語」を失ってからにも、新たな輝きがあるのかもしれない。

 

(文中敬称略)