the end of an era

You are free to be who you are.

「太陽は何度でも」という一度きりの「芸術」

 タモリがメディアの表舞台からフェードアウトしていくこの時代、芸は文脈に支配されている。たとえば、指原莉乃が2013年頃、一時期多用していたものとして、「好きな男性のタイプは?」と聞かれた際の返答として、「秘密を守る人」という一笑いの取り方があった。おそらく男性側の暴露によってスキャンダルが明るみに出て、ピンチを経験することになる指原が、この返答をする。その文脈を共有しているからこそ、そこに笑いが生まれる。

 この現象は、笑いだけでなく芸術においても起こっていることであると言える。たとえば、高山一実の『トラペジウム』という小説を読んだとき、そこに、「現役アイドルが書いた表現や物語」という文脈を取り除いて読むことは難しい。同じように、現代において有名な画家の絵や作曲家の音楽を聞いたとき、それを無下に批判することは難しいし、絵や音楽に付けられたタイトルから離れてその作品を鑑賞することは不可能であると言ってもいい。

 もちろん、こういった文脈依存の芸が、教養や文脈理解といったものを要求するという点で批判の対象となっていることは事実かもしれないし、赤塚不二夫タモリはそれに対抗してきたと言ってもいいのかもしれないし、筆者も文脈のない芸が見たくなるときがあるが、それでも人は文脈に頼らずに芸を理解することは困難だし、文脈にこそ芸の影響力が増大していく要因がある。

 

 さて、非常に暗い話題なのだが、2019年5月18日に行われたNGT48の「太陽は何度でも」公演のアンコール前最後に披露された曲が、『黒い羊』であったことが話題になっている。もちろん、振り入れもさほど時間をかけられるわけでもないだろうし、そのパフォーマンスそのものの完成度だけの話をすれば、確かに欅坂46の『黒い羊』のパフォーマンスのほうが完成しているという主張は否定しがたいものではあると思う。しかし、それだけをもって、その価値を判断するのはあまりにも早計と言ってもいい。

 ここで、一つのツイートを引用しておきたい。

振り付けの差異からは、欅坂46が表現しようとしている歌詞世界と、山口真帆たちが表現しようとしている歌詞世界の差異が見て取れる。

 歌詞解釈は人によって多様でありえる。フルコーラスの『黒い羊』の歌詞に対する筆者の解釈は、「黒い羊」である「僕」が、自己内の葛藤を経験し、他者からの批難を受けながらも、最終的には自分の意志によって「ここ」にいることを肯定する、というものであって、そこに自己を肯定してくれる「救世主」の存在はない。

 山口真帆たちが表現しようとしている歌詞世界は、これに近いものなのかもしれないが、念のため、TVサイズで披露されたことに気をつけておきたい。この曲が精神的消耗をするものであり、加えて彼女たちの置かれた状況も考えれば、肉体的・精神的・スキル的な観点、あるいは権利上の関係から、フルコーラスで披露することが不可能だった、という可能性もあるだろう。しかし、逡巡する中での表現とはいえ、強い印象を持っている、2番サビ前の「全部僕のせいだ」がないことは重要であると言ってもいい。

 そして、現実世界においては、「ここ」にいることができずに「ここ」から去っていく去り際の曲として歌われていることと、完璧にとは言えないまでもリンクしている。そういうように、現実世界の文脈の中で歌詞世界を表現することによって、その表現はパフォーマンスの完成度という次元とは関係なく解釈されることになる。

 もちろん、山口真帆たちの『黒い羊』の表現を一連の事件という文脈から離れて解釈することができないのと同じように、欅坂46の『黒い羊』の表現もまた、欅坂46のメンバーの行動という文脈と離れて解釈することはできない。そこに生まれるものを、ものによっては「憶測」と呼ぶのかもしれないが、矛盾が起こらない限りにおいて、それは一つの解釈として(少なくとも場末のブログで書くくらいなら)許容されるものでもある。たとえば、『黒い羊』のMVで手紙を読みながらスーツで一人階段を降りる長濱ねるの姿を、2019年3月7日の卒業発表以降、卒業という文脈と切り離して解釈することはできない。

 

 話を戻して、山口真帆たちの『黒い羊』の表現とはいったい何だったのだろうか。

 比較のために、2019年4月26日にミュージックステーションで披露された槇原敬之の『世界に一つだけの花』を聞いて思ったことを述べておきたい。あの『世界に一つだけの花』は、確かに歌としてはSMAPよりも上手だったかもしれないが、何か得体の知れない違和感があった。本来そこで歌うべきSMAPがいない、という違和感もあるのかもしれないが、やはりSMAPの『世界に一つだけの花』は、それぞれがそれぞれの、「オンリーワン」のやり方で長いアイドル人生を生きようとしていたSMAPだからこそ、鑑賞者が歌詞のメッセージ性をより強く持って受け止めることができたのではないだろうか。

 しかしおそらく一回だけ、SMAPの『世界に一つだけの花』が、違う意味によって解釈されるパフォーマンスがあった。2016年12月26日の『SMAP×SMAP』最終回の『世界に一つだけの花』だ。声の震えとか、力の入り方とかいう細かいことは正直言って分からないのだが、中居正広が、後奏手前で手を振り始める直前、5本の指を1本ずつ折って数えるシーン、そして幕が下り、カットがかかった後、中居が後ろを向いて涙をこらえるシーンは、明らかに今までのパフォーマンスとは異なっていた。このパフォーマンスには、本当は「オンリーワン」であることを肯定し、体現していたはずの5人が、別々の道へと分かれていく、その別れの前の最後の撮影であるという文脈がある。このことによって、『世界に一つだけの花』が、「オンリーワン」を目指し続けることと、SMAP(をはじめとする男性アイドル)が終わりのないアイドルであることの矛盾を感じさせるようなものになっていたのだろう。

 話を戻して、山口真帆たちの『黒い羊』の表現は、確かに「黒い羊」となり「厄介者」と批難される存在となってしまったのかもしれない人たちが表現するという文脈において、気持ちなのかアイデンティティーなのかはわからないが、その象徴としての彼岸花を踏みつけられ投げ飛ばされる「救世主」のいないオリジナルの振り付けと合わせて、その迫真性が高まったのだろう。*1

 

 欅坂46の『サイレントマジョリティー』の発売後、しばらくの間なされた批判として、「与えられた歌詞を歌うグループの「君は君らしく」には現実味がない」というものがあるが、この批判は的を射ている部分もあり、確かに、彼女たちは、良くも悪くも職業としての表現者であるし、その上で、表現力が突出しているのだろう。*2少し話を単純にしすぎているかもしれないが、恋愛禁止のアイドルが歌う恋愛ソングに心がこもるはずはないとしても、その表現として歌詞世界を表現するパフォーマンスをすることはできる、ということに似ている気がする。もちろん、彼女たちも歌詞世界と自分を重ね合わせずに歌詞世界に入ることは難しいだろうし、『不協和音』に代表されるように、若者が誰しも持っている、そしてメンバーが持っていそうな感情の一部分を拡張して描くことが、欅坂46のシングル表題曲の傾向ではある*3から、単純に「職業」だと言い切ってしまうことはできないが、それでも、先にあるのは楽曲である。

 しかし、「太陽は何度でも」公演で表現されていた『黒い羊』は、自己の感情や世界を表現したいという願望が先にあって、それを表現する手段として適した楽曲が選ばれているのだろうと推察できる。

 この2つは、表現の形として明らかに異なるし、後者の表現の文脈をある程度共有している鑑賞者は、その表現から「絶対にそのときのその人にしかできない」ものを感じ取ることによって、その絶対性が強まっていく。もちろん、2つの表現の形のどちらも否定されるべきものでもなければ、比較されるべきものでもないと思うが、筆者の感想を述べておくと、欅坂46の『黒い羊』は、何度かパフォーマンスを見る機会があるなら何度か見てみたいと思うが、「太陽は何度でも」公演の『黒い羊』は、一度きりでいいし、一度でも十分なほどの衝撃を持っていたと思う。

(文中敬称略)

*1:ただ、「ここ」にいる意志を貫くことができる状況になかったという点で、歌詞とは明確な矛盾がある。そういった細かい差異は、歌という表現においては気にされないことが多いのかもしれない。

*2:生駒里奈のインタビューから推察すれば、『FNSうたの夏まつり』でセンターをつとめた彼女は、自分には表現できていない部分があると感じているようだ。

*3:実際、『不協和音』はセンターに(歌詞世界への没入などによって)精神的な疲弊をもたらすことから「魔曲」と呼ばれることもある