the end of an era

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『天気の子』にトゥルーエンドはあるのか(ネタバレあり)

 しばらく前、『天気の子』を見に行ってきた。僕が映画館を出た直後の感想は、まゆりエンドなのかな、という気持ちだった。ただ、正確に考えてみると、ゲーム『Steins;Gate』とは、状況設定が違うことを確認しておきたい。たしかに、β世界線(特にまゆりエンド)では、まゆりが生きていくかわりに第三次世界大戦が起こる世界線で生きていくことを選択したわけだから、その点で世界をマイナスの方向に変えたことを肯定したエンドではある。ただ、α世界線に戻ったとしても、待っているのはSERNの支配によるディストピアであって、岡部とまゆりと紅莉栖という3人の物語も、世界全体も、結局2人両方を救う世界線シュタインズゲート世界線)にしか、救いは存在しない。

 より概念的に言えば、ボクとキミの関係が(具体的な中間項の有無はともかくとして)世界の存亡や危機と関わる物語における、「ボクとキミ」と「世界」の関係性は、ボクとキミが結ばれる、あるいは生きている世界線こそが幸せな世界である、という関係か、ボクとキミが結ばれることによって世界に危機が起きる、という関係かである。

 そう考えたとき、『天気の子』は、『君の名は。』や『Steins;Gate』とは対照的であると言える。これら2作品が前者の関係であるのに対して、『天気の子』は後者の関係である。

 

 後者の関係を持つ作品をほかにひとつ思い浮かべることができる。「青空より僕は陽菜がいい、天気なんて狂ったままでいいんだ」という帆高のセリフを聞いたとき、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』(以下、エヴァ破)の最後、シンジが「世界がどうなったっていい、だけど綾波は、せめて綾波だけは、絶対助ける」と言ったシーンを思い出さずにはいられない。実際、結果として『天気の子』では3年間東京に雨が降り続けるわけだし、『エヴァ破』ではサードインパクトが起きかける。『エヴァ破』はそれを一度見ただけで解釈するには難があるし、続編では実際には助けられなかったことが明らかになってしまうわけだが、それをわけがわかる形で、つまり少なくとも当人たち2人と観客は、当人たちが世界をマイナスの方向に変えてしまったことを認識できる形で描いたことには、ひとつの意義があるのかもしれない。

 

 『天気の子』公開後、ノベルゲーのようなルート分岐が想定できる物語展開であることが話題になったし、実際、この物語に、様々なifがあることは事実だろう。

 では、その中に、こういうエンドにならない世界はあったのだろうか。『天気の子』世界の因果律としては、帆高が新宿にやってくる1年前から、陽菜が人柱にならない限り、世界を「救う」ことはできない。陽菜と世界、どちらを取るエンドが良いエンドか、という話は、監督が観客に投げかけた最大の「問い」であるだろうから、それは置いておくとして、陽菜を救うのであれば、最良の結末は映画世界の通りにしかなりえないことが決まっている、と言える。

 ここからは、仮定の話である上に、ADV的な話であるが、一応検討しておきたい。『天気の子』世界において、過去へのタイムリープができるとしよう。中学3年生の帆高が、何らかの方法で代々木の廃ビルへやってきて、「天気の子」になろうとする陽菜を止める、という行為が考えられる。もちろん、その時点では2人は赤の他人だし、そう簡単に止めることができるとは言えない。一応、映画世界ではそのことも可能だとする。その場合、誰か他の人柱が必要である。それ以上に、帆高と陽菜が経済的にも精神的にも支え合っていたという過程も、2人が結ばれるために必要なことだったはずで、その過程すら陽菜が「天気の子」であったからこそ生じたもののはずだ。たとえ、『Steins;Gate』のシュタインズゲート世界線における岡部と紅莉栖のように、『君の名は。』の瀧と三葉のように、運命的な再会ができるとしても、そこに2人が結ばれる理由がない。さらに言えば、そうなったとして、経済的に困窮している陽菜が幸せに生きていける保障はない。

 そういうことを考えていくと、『天気の子』世界の因果律と、状況設定を前提にした場合、陽菜も世界も救うことのできるエンド(これがタイトルで想定している「トゥルーエンド」)は存在しない。というか、因果律と状況設定が、タイムリープという飛び道具を出してきたとしてもトゥルーエンドになるストーリーが想定できないように組まれているということを再確認させられた。つまり、陽菜のいない晴れの世界か、陽菜のいる雨の世界か、の2択を突きつけられているし、どちらかに世界は収束するように作られている。

 

(以下、蛇足)

 『天気の子』を見に行ったのとちょうど同じ時期、現実世界は、どこまで収束するのだろうか、なんていうことを考えていた。きっかけは前回の記事の長濱ねるの卒業なわけだが、日向坂46の元となったけやき坂46は、長濱ねるが最終オーディションの直前に母親に長崎に連れ帰られたことからできたグループであるし、長濱ねるは、ことあるごとに元乃木坂46伊藤万理華が、自分がアイドルになったすべてのきっかけだ、と言っている。ということは、因果としては、伊藤万理華乃木坂46にいたからこそ、日向坂46は存在している、と考えることができる。ただ、実際、伊藤万理華乃木坂46にいなかったとしたら、今の坂道グループの形はどうなっているのか、現状と同じような形を取っているのか、それは誰も知り得ない。

(文中敬称略)