the end of an era

You are free to be who you are.

『3年目のデビュー』と青春

 記事を書くのが久しぶりになってしまうが、もう2019年7月30日から1年が経つ。推しをもう1度見る機会を100年でも待つつもりで、卒業後、推しの残した(と勝手に思っている)日向坂46のライブに行く機会が増えた。もちろん、『日向坂46ストーリー』を読んでいたし、その数奇な運命と、その中で戦ってきたメンバーの強さを知るたびに、魅力を感じている今日この頃である。そんなわけで『3年目のデビュー』を観に行ってきた。


 まず、この映画は、"日向坂"46のドキュメンタリー映画であって、"けやき坂"46のドキュメンタリー映画ではない。分かりやすく言えば、武道館までの、けやき坂がアンダーでしかなかったような、本当に苦しい時代の描写は最低限になっている。むしろ話の中心は、「3年目のデビュー」を迎え、日向坂46として活動するようになってからの1年である。
 もちろん、けやき坂46時代の詳細は『日向坂46ストーリー』に譲るところではあるのかもしれないが、日向坂46の、あるいはけやき坂46のメンバーには、1期生がインタビューで語るように、ひらがな12人時代から、あるいは長濱ねるから受け継がれる精神がある。それが、けやき坂と日向坂を貫く一つの芯のようなものであるような気がしている。それを「ひたむきさ」と表現するのか、「謙虚さ」と表現するのかはわからないが、ともかくそういう芯がひらがな時代からあることが、表現しきれていないような気がした。ただ、使われていたひらがな時代の映像素材を見る限り、それを表現できるほどの素材を撮り溜められていなかったのだろうし、仕方ない部分もあるとは思う。

 もうひとつ、けやき坂が欅坂との違いを求め、たどり着いたものとしての、「楽しさ」や「笑顔」でさえ、いつ生まれたのか明確に描かれてはいないように感じた。作中でも、『ハッピーオーラ』が使われるなど、それを表現しようとしているところは見られたが、あくまでそれが分かるのは、元々「ハッピーオーラ」という言葉が使われるようになった理由を知っている人だけのような気もする。

 とはいえ、長濱ねるの数奇な運命から始まる、けやき坂46というアイドルグループの歴史が、短い時間であったとしても一つの映像作品に刻まれたことは、長濱ねるのファンとして、嬉しい限りではある。同じように、主軸とは言えないながらも、長濱ねるの欅坂からの卒業や、柿崎芽実井口眞緒の卒業理由を描いたことにも、誠実さを感じるところはある。アイドルとは、その理由が何であれ、得てして卒業というものと無縁ではいられないのだと思うからだ。

 

 ここまでが、長濱ねるのファンである筆者が思った、率直な感想である。そして、ここからはアイドルというものをメタ的に見た話をしたいと思う。

 

 多忙さを絆で乗り越えて夢へと向かっていくというストーリーは、アイドルのドキュメンタリーを作るときに、いやより広く言って、青春群像劇を作るときによく使われる手法である。たしかに、アイドルには、青春群像劇の主軸たる要素が揃っている。困難と絆、そして高い目標というものがあり、それを乗り越えることこそが、アイドルとして成長していくために必要なものである、ということに異論はない。

 ただ、だからこそ、アイドル活動とは(メンバーにとっての)青春であるということを感じざるを得ない。筆者もまだ若いと言われる歳かもしれないが、青春というものを客観的に見ることをついついしてしまう癖がある。『青春の馬』も、作中でも非常に印象的な曲として扱われているし、実際発表されたときの印象もかなり強かったように思う。

 作中でもある程度表現されている通り、走り続ける人々にはいつか限界が来る。それがどのように来るかについては、色々な形があると思うが、それこそ長濱ねるのように、限界が卒業という形で現れることになることもあるだろうし、休業のことだってあるし、もしかしたらスキャンダルというものさえ限界の現れなのかもしれない。

 青春から生まれる力というものを、我々ファンは消費している、とさえ言えてしまう。それを見ることがアイドルを見る行為の本質なのだとしたら、少し悲しさが混じってしまうような気がする。そう考えると、成熟したアイドルを見る安心感というものがあることを理解するし、成熟したアイドルの意義という問いへと戻っていくような気がする。

 

 しばらく文章をかかないうちに、文章を書くのが下手になったような気がするが、生の感想として、認めさせてもらいたい。