the end of an era

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『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』という解答(ネタバレあり)

 『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』(以下シンエヴァ)という、エヴァ最終作になるであろうこの作品は、庵野秀明が、エヴァというシリーズを、どう終わらせるのか、悪い言い方をすれば、序破Qで荒した新劇場版の物語に対して「どう落とし前をつけるのか」、その問いに対するひとつの解答だと思っている。

 その解答を、長い人に言わせれば25年も待たされているわけだし、その解答をどう受け止めるかは、正直言って一人ひとりが考えるべきことであって、人それぞれでいい。ただ、その受け止め方を共有したいという気持ちはあるし、だからこそ、筆者はいま筆を走らせている。

 先に言っておくが、エヴァを語るということは、庵野秀明という人間を語るのとほぼ同義と言ってもいいほど、両者は切っても切れない関係にある。エヴァシリーズというものは一度途切れた作品であり、そこに一貫しているものは、シンジではなく庵野だ、という立場を取る。

 以降は、本当にシンエヴァを見た人だけが読んでもらえれば嬉しい。

 

 映画館でエンドロールが流れる中、僕が最初に思ったことは、「庵野はこれでよかったのか?」という疑問である。

 そのひとつの理由は、「内容のわかりやすさ」であって、人類補完計画の具体的な内容は、ゲンドウの口から語られ、ヴンダーの起源など、Qで「わからない」とされていたことが、ほぼ全て事細かに表現されている。これまで、というか「最終2話」「Air/まごころを君に」「エヴァQ」と、わからない物語を展開することが、庵野の得意技だったと言える部分はある。

 そしてもうひとつの理由は、「この終わらせ方を選んだ理由」である。エンドロール中に物語を整理していて思ったこととして、父と戦い、父を否定し、自らの手で、自らの形で、人々を救おうとするシンジは、明朗快活であって、そこに鬱屈としていたシンジの姿はない。これが、25年待った答えなのか?と、素直に疑問が生じた。この疑問を、整理しながら紐解いていきたい。

 

 まず、このシンジが選んだ世界とは、どういった世界だったのかについて、ゲンドウの目指した世界との比較で振り返っておきたい。ゲンドウは、ユイともう一度会いたいがために、つまり、「ボク」と「キミ」のエゴのためだけに、「ボク」と「キミ」の境界線をなくそうとする。以前、『天気の子』の記事で、破におけるシンジの「世界がどうなったっていい。だけど綾波だけは絶対助ける」と言ったシーンを、『天気の子』のストーリーと重ね合わせて論じた。どちらかといえば、ゲンドウの計画は、破のシンジの考え方に近い。

 しかし、シンジは、破では世界を犠牲にしてでも綾波を助けたいと願ったが、2度目の『シンエヴァ』では、それを選ばなかった。人間が人間として生きて、そこに人間ならではの交流が生じる世界を選んだのである。そこに、綾波やカヲルとの関係性はない。

 それに呼応するように、『シンエヴァ』には、「人間味」というサブストーリーが設けられている。アヤナミが人間味を獲得していくシーン、ミサトがQでDSSチョーカーを起動しなかったシーンなど、これこそが人間らしさだ、という伏線が張られていたことに気づく。

 確かに、綾波もカヲルも失い、「キミ」のいない世界になったとはいえ、LCLによって一体化できるというゲンドウの理論をもってするならば、シンジがなぜこの選択をしたのか、それがはっきりとしない。ただ一つ言えることがあるとすれば、この物語はもはや「セカイ系」ではない。「ボク」と「キミ」の関係は、世界の存亡と関わらないし、逆に言えばゲンドウを否定することによって、「セカイ系」を否定したとも言える。「セカイ系」の始祖と言っても良いエヴァシリーズが、最後の最後で「セカイ系」を否定したことに、ただただ驚くしかない。

 

 ここまで物語の話をし続けてきたが、それだけではこの作品を捉えることができない。先程も述べた通り、エヴァシリーズは庵野という人間と切っても切り離せないからだ。

 エヴァシリーズを見るにあたって、時々使われることのある考え方として、「シンジは庵野の現し身である」というものがある。そして、ラストシーンの宇部新川駅が出てくるところは、その現し身理論を補強するものである。(庵野の生まれが宇部のあたりである。)

 その考え方をとったとき、シンジが明朗になる、ということは、庵野が明朗になった、ということに他ならない。実際、この終わり方をさせようとする時点で、庵野秀明という人間が鬱屈な人間でないということは言うまでもないであろう。エヴァの呪縛に捕らわれていた庵野が、呪縛から解放されるまでに25年、Qから数えても8年以上かかった、というのであれば、納得せざるを得ない。

 さて、Qからシンエヴァまでの8年以上の間に、日本アニメ界には様々な作品が登場した。新海誠の『君の名は。』や『天気の子』はその代表であると言えるだろう。そして、『天気の子』は、ゆるやかな「セカイ系」であると言ってもいい。それだけでなく、エヴァが始まってから25年、「セカイ系」やそれに類するもの、「エヴァっぽい」と言われるものは、無数に生まれてきた。アニメ版放送開始当時は主流ではなかった物語の形が、今や大衆化されるに至っている。

 そういう変わってしまった時代感の中で、庵野が「セカイ系」を否定した終わり方を取るのであれば、それは現代の大衆化された「セカイ系」に対するアンチテーゼであり、その意味で、庵野の根底に流れる非大衆迎合的な性格というものを垣間見ることができるのかもしれないし、ボクとキミの関係程度で世界は変わらないという諦観もあるのかもしれない。

 そう思うと、この終わらせ方を選んだことに納得がいく、というだけなのかもしれないが。