東京都文京区・水道橋からほど近い場所に、45000人ほどを収容できる屋内野球場、東京ドームがある。東京読売ジャイアンツの本拠地球場であるこの球場は、プロ野球の試合会場のみならず、ライブ会場としても使われる。グラウンドに座席を配置すると55000席ほどになり、これは国内にある屋内のライブ会場としては最も大きい会場になる。*1
屋内のライブ会場としては最も大きいこと、そしてその座席数を埋めることの難しさから、東京ドームという場所でライブを行うことは、日本で活動する多くのアーティストにとって「夢」とされている。
もちろんそれは、女性アイドルグループにとっても例外ではない。単独東京ドーム公演を行った日本の女性アイドルグループは、2024年11月27日までで、Pefume、AKB48、μ's、乃木坂46、ももいろクローバーZ、欅坂46、日向坂46、BiSH、そして櫻坂46の9グループを数えるのみである。*2
しかしそれと同時に、女性アイドルグループとそのファンにとっては、東京ドームとは多くの「別れ」を経験する場所にもなっている。特に、AKB48や乃木坂46のファンにとっては、東京ドームでは卒業発表や卒業コンサートなど、卒業に関わるイベントが多く、メンバーとの「別れ」の場所というイメージが強いのではないかと想像する。そして、μ'sは東京ドーム公演を集大成として一つの区切りを付け、BiSHの東京ドーム公演は解散ライブとして行われた。こちらはグループとしての「別れ」の場所と印象づけられているように思う。一方で、AKB48は最初の東京ドーム公演を、AKB48劇場から東京ドームまでの直線距離を冠して「1830mの夢」と題していたし、日向坂46は、けやき坂46時代から東京ドームを「夢」の場所として語り続け、実際に東京ドーム公演を行った。=LOVEは『笑顔のレシピ』のMVにおいて、東京ドームを「夢」の場所として掲げている。こうして考えると、女性アイドルにとっては、東京ドームとは「夢」と「別れ」が入り交じる場所のように思える。
2024年は、5月11日・12日に乃木坂46が『山下美月 卒業コンサート』として、6月15日・16日に櫻坂46が『4th ARENA TOUR 2024 新・櫻前線 -Go on back?- IN 東京ドーム』として公演を行い、12月25日・26日に日向坂46が『Happy Magical Tour 2024』(東京公演)として公演を行うことが予定されている。3つの女性アイドルグループが東京ドームで公演を行うこの年に、いくつかの記事にわけて、「夢」と「別れ」という言葉と、「東京ドーム」という場所を大きなテーマとして、近年の女性アイドルグループについて振り返りたい。
本稿では、本編を綴る前に、おそらくそれなりの分量になるであろう一連の記事の前序として、アイドルのファンとしてこうして文章を紡ぎ、いちおうは全世界に向けて発信することそのものの意義について、今一度考え直しておきたい。
- 1. アイドルのファンとして語ることの意味
- 2. 作家論と作品論とテクスト論と
- 3. 「推し」と向き合いつつ、比較論で語ること
- 4. 散逸する資料や語りと、「真実」の見取り方
- 5. アイドルの「正史」と「野史」
- 6. これから記す「2020年代前半のアイドル史」を見る試み
1. アイドルのファンとして語ることの意味
アイドルのファンとして、たとえばX(旧Twitter)などの短文SNSの世界を超えて、数千字や数万字という単位で文章を記そうとする人は、そこまで多くはないように思う。そもそも、アイドル本人や各種の媒体が発信者であって、ファンは受け手であることを考えれば、アイドルという趣味は構造的に受動的なものであるのだから、それは当然のことだとも言える。もちろんファンコミュニティの中では能動的な動きがあり、それは(特に女性の)アイドルグループにとっては大きな役割を果たしているが、大枠として存在しているのは、アイドルからファンへの一方通行的な流れである。あるいは、握手会やミート&グリート・メッセージアプリ*3でのレター*4など、ファンからアイドルへの流れがあることも事実だが、特に坂道グループ*5においては、公式にはその流れは1対1の世界にとどまっていて、ファンから本人に向けた行動が他のファンへと波及することが難しい形で行われている。
もう少し視野を広げて、アニメの世界を見てみると、ファン自身がキャラクターに対して抱えているイメージを「解釈」と呼んでいる。「解釈」が二次創作の作者をはじめとする周囲のファンと一致するかに関心を寄せると同時に、実際に与えられる「公式」からの様々な情報をがそのイメージに一致しているかどうかにも大きく関心を寄せ、公式との「解釈違い」を起こしたときは少し気持ちが離れることもあるように思う。こうしたアニメの世界で起こっていることは、構造的に3次元のアイドルにも適用できる考え方である。とはいえ、3次元のアイドルについては、その「解釈」の向こうにアイドル本人が人格として・個人として明確に存在している。3次元の個人とその人格はときに変化するものであり、必ずしも固定された「キャラクター」ではないことから、3次元のアイドルについて綴ることは、本人がそれを目にするかどうかに関わらず、様々な経路を通じて本人に影響を及ぼしうる。
短文SNSを含めて、ファンがアイドルについて文章を綴ることは、意図的にせよ、そうでないにせよ、アイドル本人やファンコミュニティに対して影響を及ぼす数少ない方法の一つになっている。ファンが一体となって「ファンの気持ち」を届けるような動きが、アイドル本人やその周囲に対して影響を及ぼすことの一例であろう。*6あるいは、推しているアイドルのことについて、いわゆる「推しを広める」ような目的で文章を綴る人もいる。周囲のファンに対して、推しの色々な事柄を知ってほしいという感覚で綴られる文章を見かけることも多い。
あるいは、そういった理性的な理由だけではなく、感情的な理由で文章を綴ることもあるだろうか。筆者自身にも、アイドルのファンとして、ライブやイベントその他の出来事に対して、その時直感的に思ったこと、そしてそれを感情的に綴った文章も大切にしたいという気持ちがある。そもそもアイドルへの向き合い方や好きという気持ちは十人十色で、どれも否定されるべきものではないことは言うまでもない。
アイドルのファンとして、文章を綴る動機は様々あるように思うが、どちらかというと先に述べたようなものは短文SNSの世界におさまる傾向にあり、そして短文であるほうが、その目的を達しやすいように思う。逆に、ブログやnoteを通じて、多くの文字数を使って文章を綴ることは、他者への影響という観点では、狭い範囲に深く影響するものである。こういった文章を綴るときには、事実を正確にみとりたいし、間違った情報をもとに語られるものが半ば「歴史」となっていくことを認めたくはない。
長文を綴る行為は、そこにある現実と真っ向から向き合うような感覚さえあり、そこには多かれ少なかれ「真実に近づきたい」のような欲求があるのではないかと推察する。しかし、アイドルのファンにとっては、アイドルにまつわる事柄の「真実に近づく」という行為はそう簡単ではない。次章以降では、この「真実に近づく」記述のための意識について考えたい。
2. 作家論と作品論とテクスト論と
そもそも、アイドルについて資料を根拠に語るとき、いわゆる「一次資料」は、アイドル本人が発信したブログ、ラジオ・TVでの発言、インタビュー記事やメッセージアプリでの発言などになるだろうか。そういったものをベースに、アイドル本人やグループ全体に起こっていることを紐解き、「真実」なるものに迫ろうとする行為が、筆者自身がこれから行おうとしていることである。
しかし、いわゆる「一次資料」を整理するにあたって、そこには必ず「解釈」というものが存在しうる。この解釈は、受け手によって様々であるが、だからといって受け手が恣意的*7に解釈し、受け手自身が思ったこと・感じたことがすべて正しい解釈として認められる、という立場は認められない。*8
たとえば、小説について解釈するときには、その文章の文脈を前提として解釈することが一般的になる。また、考え方によっては、その作者が過去に発信したインタビュー記事などの事柄や、過去の作品などを論拠に解釈することもある。同様に、「語り」とも言うべきアイドルの「一次資料」を解釈するにあたっては、その「語り」単体の文脈のみならず、そのアイドルや所属するアイドルグループの置かれた状況*9などを論拠にするべきなのだろう。
これは、セットリストや歌・ダンスなどのより芸術的な「表現行為」をとるほうがより困難になる。たしかにそういうものは芸術の一部であって、「芸術」として解釈するなら多様であることはある程度認められるが、「アイドルのファンがアイドルと向き合うための行為」として捉えるのであれば、まずはそこに存在する意図を、可能な限り過不足なく拾わなくてはいけない。
加えて、アイドルが何かを発信するとき、それは媒体を通じてアイドル本人が「意図的に」発信したものであることに注意しなければならない。文学作品とは異なり、そこには一人のアイドルの人格として、あるいはそのアイドルグループの性格として適切かどうか、というバイアスが強くかかるものである。
その意味で、アイドルの歴史に従って発信するアイドルの側も、アイドルの歴史に従って解釈するファンの側も、その成果物はアイドルの歴史にとって適切なものが生まれやすい状況に置かれている。それはきっと、アイドルにとって理想的な歴史の紡がれ方なのだろうと思う。
たしかに、意図されていない部分の効果はそれはそれで大切なのだが、まずは「意図されたもの」のほうを描き出すことによって、アイドル本人やそのマネジメントをするスタッフが想定していなかったもの意味がはっきりと見えてくるようになる。
3. 「推し」と向き合いつつ、比較論で語ること
「推し」を客観的に見られるか
グループアイドルのファンには、かなり多くの場合、「推し」と呼ばれる特に好きなメンバーがいて、その「推し」を軸にアイドルグループを応援している。「推し」という言葉がどういう意味を持つのか、そしてどういう態度で「推し」と向き合うのかは、ファンがそれぞれの距離感で考えているものであるが、一般的には「人に推めたいほど好きな人物のこと」というような意味で括られるのだろうか。もっと究極的に、詳しく語る必要もなく、無条件に愛していたいとさえ思える人のことでないと「推し」と呼ばない人もいるのだろうと思う。どういった定義にせよ、強い「好き」の気持ちの対象であることに変わりはない。だからこそ、意識的か無意識的かはわからないが、「推し」を否定的に語ることはしないのが一般的であると思う。このことによって、アイドルのファンが語る文章には必ずバイアスがかかっている。
とはいえ、「推し」という存在を持たずにアイドルのファンを続けることは、難しいように思う。いわゆる「箱推し」というように、特定の「推し」を決めずにグループ全体のことを応援するファンもいるが、2024年現在の坂道グループにおいては特に、「推し」を持つことが一般的になっている。
もちろん、特定のメンバーを贔屓して語ること自体は、「真実に近づく」ための行動として正しくないと言えるようにも思うが、逆に「推し」を持つからこそ、そのメンバーについての知識が豊富になり、それを軸に精緻に語ることができるようになるときもあるように思う。「推し」が起こした行動を中心にグループを見続けることで、グループの変化が見えてくることも多い。そのとき、事実の一部をとりたてて強調しているような状態になっていることもあるのかもしれないが、大きな意味で「真実に近づく」ことになっていることもあるだろう。*10
そもそも、「推し」という概念が存在しなかったとしても、アイドルのファンとして、アイドル文化全体を否定的に描くことができるのだろうか。その観点からは、どう考えてもファンはアイドルを客観的に見ることはできないし、できないからこそ「ファン」や「オタク」なのだ。アイドルのファンが綴る文章は、少なくともそういったバイアスの影響下にあり、「推し」への贔屓でさえ、そういったバイアスの程度の問題なのだろうと思う。しかし、そのバイアスを前提に綴られる文章だからこそ、きちんと論拠を持って語らなければならないのだと思う。
「推し」への愛情を言語化することの危険性
そもそも、「推し」に対してなにかを言語化しようとするとき、それは自分自身の「好き」という感情と客観的に向き合うことと、「推し」そのものを客観的に見ようとすることの両方を含んでいる。「推しの全てを肯定したい」というような言葉が使われることも多いが、人間は誰しも矛盾をはらんでいて、特にその発言や発信などが矛盾しないことはかなり難しく、客観的に見れば「悪い」影響を誰にも及ぼさないで生きることは不可能とさえ言える。それが大人数のアイドルグループとなれば、その中での矛盾が生じないことはさらに難しくなる。「推し」について言語化して語るとき、その矛盾や負の面に気づいてしまうと、「好き」という気持ちが途切れる危険性があるように思う。そして、それ以上に、自分の好きな気持ちを言語化することは、その好きな理由や根拠を明確にすることでもあって、その根拠が否定されたとき、あるいは状況が変化して根拠がなくなってしまったとき、「好き」という気持ちそのものが消えてしまうきっかけにもなりかねない。だからこそ、無理な形で「好き」を言語化する必要はないように思う。
差異を描き出す「比較論」を正しく使う
では、アイドルについて、自分の「推し」という感情と離れて、客観的に見る方法はどういったものがあるだろうか。統計的・定量的な観点から見ることができることもあるだろう。しかし、アイドルの世界に存在する資料には、定量的に計ることができるものはあまり多くない。*11どちらかといえば、定性的なさまを見て取らなければならないものが多いように思う。そういった定性的なものを評価するとき、比較論によってその特徴を描き出すことが一般的である。
しかし、比較論的な立場から「このアイドル/アイドルグループにはこういう特徴がある」ということは、他のアイドルやアイドルグループに対して、「このグループにはこういう特徴が欠けている」という意味と表裏一体のものである。例えば、「乃木坂46は世代交代に成功したグループである」という表現は、アイドル史の立場から比較論的に捉えれば、「AKB48は世代交代に失敗した」という言外の意味を含んでいる。
先に述べたように、アイドルのファンは「推し」のアイドルやアイドルグループを持っており、「推し」のアイドルやアイドルグループに対する否定的な言葉に対しては、強く拒否反応を示すものでもある。こういった比較論的な立場は、「推し」ではないアイドルやアイドルグループを貶めるものと捉えられ、ファンコミュニティでは忌み嫌われる傾向にあるように思う。どちらかといえば、その絶対的価値*12を評価するような試みが、アイドルに対する評価としてはよく使われる。ものごとの評価には、「絶対的価値」に基づくものと「相対的価値」に基づくものの両方があって、「推し」について常に肯定的に語ることは、その「絶対的価値」に重心を置いているような感覚になるのだろうか。
とはいえ、アイドルやアイドルグループは、常に他と比較されながら活動を行っている。近年の坂道グループを例にとれば、数値的な競争という面をことさらに強調するようなことは行っていないにしても、定性的なものを含む多面的な競争によって、なにかの出番を得られることもあれば、得られないこともある世界に身を置いていることは確かだ。だからこそ、「真実に近づく」ためには、比較論的な立場から「相対的価値」についても描き出す必要があるのだと思う。とはいえ、それは、評価するアイドル・アイドルグループ以外を貶めるために使うものではなく、様々な観点から、それぞれのアイドル・アイドルグループが持つ「相対的価値」を描き出し、さらに精緻に比較することによって、その価値が生まれた理由を描き出すためのものだ。
乃木坂46の世代交代に関して言えば、「世代交代に成功した」ということを単に肯定的に評価したいわけではなく、「なぜ世代交代に成功したのか」を、AKB48との比較から描き出すことが大切である、というようなことになるだろうか。そうして現実とその背景にある構造に客観的に向き合うことが、「推し」にとらわれすぎず、かつ悲観的になりすぎずにアイドルを語る方法になるのだろうと思う。
4. 散逸する資料や語りと、「真実」の見取り方
先に述べた通り、アイドルに対して向き合うとき、多くの場合は「一次資料」と呼べるようなアイドル本人が発信したブログ、ラジオ・TVでの発言、インタビュー記事やメッセージアプリでの発言と、ライブなどの「表現行為」への解釈をベースにすることになる。そもそも、その行為自体がバイアスのかかったものであることについても、先に述べた通りであるが、それ以上に、アイドルにはこの「一次資料」や「表現行為」へ向き合うことに対して、大きな問題がある。
インタビュー記事については、紙面に掲載されたものを見返すことができ、WEB上の媒体に掲載されたものについても、向こう十数年は保管されることが多いだろう。しかし、ラジオやTVについては見逃し配信などを含めても放送から概ね1週間で消えてしまう。近年ではライブの配信も増えているが、それでもリアルタイムの配信とリピート配信の2回を終えると、基本的には見られなくなってしまう。DVD・Blu-rayなどの形で発売されたり、乃木坂46における「のぎ動画」のように配信されたりすることによって、一部のライブを見ることは可能になるが、たとえば複数の公演の内容を比較するなどといったことは、事後的には難しくなっている。究極的には、ブログもメンバーの卒業後1ヶ月程度で閲覧できなくなる。これらのことから、アイドルについて、こういった「一次資料」や「表現行為」にあとから向き合うことは、非常に難しくなっている。
加えて、坂道グループにおけるメッセージアプリでは、発言の内容そのものを公開することが禁止されている。アイドルやアイドルグループによって、これらへのアクセスの自由度は異なっているが、一般論としては、資料や語りが散逸しやすい構造に置かれているものと思われる。
これらへのアクセスが容易であったとすると、アイドルやアイドルグループは、その語りの整合性への追及を強く受けることになると思われる。*13あるいは、ファンと言えるかわからない人々からの視線に晒されることによって、文脈を無視した解釈を受けたり、ほとんど誹謗中傷かのような批判を受ける事態も想定される。
その意味で、資料や語りが散逸しやすい構造は、特にアイドルという営みにおいては、刻々と変化し、未だ成長過程にあるアイドル本人を守る機能を果たしており、本当の気持ちを語ることが少しだけ許容される環境を作っているのだろうと思う。
ただ、こういった構造は、アイドルについて語りたいとき、かつてのアイドルについて振り返ることを非常に困難にしている。ここ20年ほどのアイドルについては、インターネット上を探せば、ライブレポートなどを含めて、アイドルに対するファンの「語り」が多く見つかる。それらが「一次資料」を参照して書かれたものであれば、それら自体は「二次資料」ということになるだろうか。しかし、「一次資料」が散逸している状態では、そういったものは反証可能性を失っているとも言える。
そして、そういったものは、多くの場合「時代性」と言えるような十数年単位の大きな文脈の中で書かれた文章であり、いま現在から語り直せば、異なる解釈もあり得るものなのだろうと思うが、そういったアプローチは排除されている。*14それでも、アイドルについて文章を綴るならば、それがいつどうやって使われるかわからないのだから、十分な「一次資料」をもとに、可能な限りの時代性を排除して、あるいは時代性を客観視したものを「二次資料」として残していきたいとさえ思う。
5. アイドルの「正史」と「野史」
こうしてアイドルグループの過去を振り返る試みは、現時点から過去を再解釈するという意味で「歴史を物語る」ことそのものである。アイドルグループは、先に述べたメディアの記録性の問題もあり、その全てを記録として振り返ることは、もはや誰にも不可能なものであると言ってもよい。もちろん、一つのグループを追っていればよいというものではなく、ファンに見えるものも見えないものも含めて、アイドルは相互に作用を及ぼし合っている。*15
メンバーの側からの発信機会も限定的かつ制御されたものになるということもあり、アイドルの「歴史」のようなものは、メンバーのみならず、ファンもその紡ぎ手になっている。
とはいえ、アイドルグループの側から、ときどき公式に「歴史」をまとめたものが提示されることがある*16。これは、公式に編纂されるもの、あるいは公式な校閲の入ったものであって、いわばアイドルグループの「正史」*17と言えるものである。「正史」は、特定のメンバーに偏りすぎることなく、かつそのアイドルグループのことだけを、公式に存在を認めている情報に依拠して*18語っているものである。
もちろん、「正史」は基本的に正しいとされた事実に依拠して書かれているものであり、ファンコミュニティにとっても、「歴史観」の中心にあるのは「正史」である。だからこそ、「野史」*19の側は、もう少し特定のメンバーに注目して語ったり、ひとつのアイドルグループという枠組みを超えて大きな視野で物事を語ったり、公式に語られない存在のものを語ったりすることが、一つの価値になりうる。
アイドルを語るにあたって、その軌跡のことを指して「物語」という単語がよく用いられる。アイドルグループに対して、そのアイドルグループが生む「物語」を追いかけたいという動機でファンになった人も多いように思う。坂道グループは、アイドルを色恋的に「消費」するような営みからは少し離れていっているように思うが、ある意味でこうして文章を綴ることは、「物語」を「消費」するという、別の消費行為にほかならないようにも思えてならない。もう少し言葉を尖らせると、「思春期の女の子たちが、その年齢と「アイドル」という職業ゆえにぶつかる様々な困難に対して生まれる感情と生き様を、外部から感傷的に眺める行為」のようなものになるのだろうか。こういう「物語」を「消費」する行為をしたくないという願望は、本質的には不可能なものなのだろうと思うが、「歴史」として文章を紡ぐことで、アイドル文化そのものが持続可能な形で続いていくことを意識することが、「消費」する行為から極力遠ざかる一つの方法であるようにさえ思う。
あるいは、これから綴る文章を筆者が「歴史」と呼びたいのは、自分自身が綴るものに大仰な言い方をしたいからではなく、テクストから生まれる「物語」と、メタゲームを解釈することによって明らかになる「構造」を同時に観察することによって見えてくるものこそが「歴史」なのだという感触を持っているからだ。
6. これから記す「2020年代前半のアイドル史」を見る試み
ここまで、アイドルのファンにとっての「文章を紡ぐこと」の意味を考え直してきた。どちらかというと、整理された論考というよりは、筆者自身の逡巡をなんとか言語化したような雑文に近いが、アイドルのファンにとって、「文章を紡ぐ」という行為は、ふと思い直すと、あまりにも無意味で、あまりにも危険で、あまりにも独りよがりで、あまりにも無謀な行為であるように思う。
それでも、アイドルのファンのひとりとして、これから長い文章で綴るのは、アイドルという営みの価値を描き出し、それが持続的に続いていくために、可能な限りのタブーを排除して歴史を振り返りたいからだ。
そして、これから綴る、「東京ドーム」という一つの場所をテーマに2020年代のアイドル文化をオムニバス的に振り返る試みは、2010年代から、あるいはゼロ年代から薄く広くアイドル文化と接し、2020年代も前半が終わろうとするいま、熱心にアイドルのファンをやっている筆者が、その経歴ゆえに持っている「アイドル文化」に対するやや学問的な興味から綴ろうとしているものでもある。
先に述べたように、東京ドームは、アイドルにとって「夢」の舞台として語られ続けている。アイドルとは「夢」と言えるような語りとともにあるものでもあり、そうしたアイドルはまずは武道館での公演を「夢」として掲げている。武道館に立つこともそう簡単なことではなく、多くのアイドルグループは武道館に立てずに解散していくという共通認識があるように思う。そうして武道館に立ったアイドルグループが、次に掲げる「夢」の舞台の代表例が東京ドームである。しかし、その東京ドームに立つとき、それは同時に「別れ」を意味する瞬間でもあった。武道館よりも、その「別れ」の性格は明確なもののように思える。そうした「東京ドーム」という場所によって生まれた歴史を、複数のアイドルグループについて横断的に観察することによって、「2020年代前半のアイドル史」あるいは「2020年代前半のアイドル文化史」を捉えたい。*20
そうした動機で綴るものが、誰かの手に渡って読まれることで、きっと歴史は少しずつ紡がれていくし、自分が見てきたもの・綴ったものが誰かに評価され、より「真実に近づく」ものが残っていくことを、性善説的に信じている。
人よりも多くの文章を書いてきた自負はあるが、それでもいまから綴るような量の文章を綴ったことは数えるほどしかない。そう簡単な気持ちで書けるようなものでもなく、こうして語る意味を綴ることで決意を新たにした。この文章を、一連の記事の巻頭言としたい。
*1:東京ドームは、最大で65000人を動員した実績がある。また、京セラドーム大阪も同等の規模のライブ会場である。
*2:厳密な定義は割愛するが、主に日本を拠点に活動を行う女性アイドルグループとして。また、AKB48が単独で東京ドーム公演を行ったのは、2014年8月18日の1回のみであるが、本稿を含む一連の記事では、AKB48グループにおける序列を踏まえ、AKB48グループとして行った東京ドーム公演をすべて取り扱う。
*3:筆者は坂道グループのファンであり、以下も基本的に坂道グループを中心に記述するが、他のアイドルグループでは、メールの購読やファンクラブでの発言などがこれに相当する。
*4:ファンレターなどが相当する。
*5:「坂道シリーズ」と同義。ただし、吉本坂46を含まない、乃木坂46・欅坂46(および、その改名前の名称である鳥居坂46)・けやき坂46・日向坂46・櫻坂46の5グループを指すものとする。以下、一連の記事において同様。
*6:具体的に言えば、「#いつもありがとう欅坂46」や「#日向三期_ライブが見たい」「#濱岸ひより_東京ドームへ」のようなハッシュタグをつけたポストなどがわかりやすいだろうか。
*7:「気ままで自分勝手に」の意味。「作為的に」の意味ではない。
*8:ひとりのアイドルファンとしては、そういった解釈が否定的な方向でない限りは認められるべきだ、あるいは否定的であっても十分に蓋然性のある推論であれば認められるべきだ、という立場はありうるが、「真実」に迫ろうとする立場としては認められないという意味。
*9:日常語では、こちらを「文脈」と呼ぶべきだろうか。
*10:具体例として、筆者には「坂道グループのオーディションにおける、長濱ねるの以前以後の違い」のようなものが見えている。実際には、その後のオーディション方式の変化は、長濱ねると「けやき坂46」結成に関わる一連の出来事の影響として捉えられる部分もあるが、少なくとも幾分かは「オーディションに対する世間の価値観」のようなものが影響しているように思う。
*11:そもそも、定量的に計ることができたところで、それが「客観的に見る」ことに対応しているのだろうかという疑問もある。例えば、CDの売上枚数やMVの再生回数という指標を取ってきたとき、それは、メンバー数や日程、あるいは各種サブスクリプションサービスでの配信開始日時など、様々なものに影響を受ける。アイドルのファンがよく「指標」と呼んで目標にする数字は、それ自身の達成を目的として活動していないときにだけ、人気などを示す代理変数・バロメータとして機能するのであって、その指標の達成が目的化されたときには、捉え方を変えなくてはならないのだろうと思う。アイドルのファンが「指標」と呼ぶものは、定量的に計るために整備されたデータではなく、自然に観測できる数字を取得しているにすぎない。それらの数字は状況や環境によって大きく変わるものであって、その数字を単純に比較して優劣をつければよいというものではないように思う。例えば、1995年の年間オリコンCDシングルランキングは、ある程度「1995年に売れた曲」を示している部分があるように思うが、2020年の年間オリコンCDシングルランキングを見て、そのランキングだけが「2020年に売れた曲」を示しているという主張は困難に思える。
*12:「それ自体が内在的にもつ価値」のこと。
*13:アイドルの語りに関する整合性については、2024年10月4日『日向坂46・松田好花のオールナイトニッポンX』における松田好花の発言が印象的である。趣旨は「インタビューで喋ったことの消費期限は1年だと思ってほしい」のようなものであるが、そもそも人間とは、時間の経過とともに変化するものであって、特にアイドルのファンは、アイドル本人の「成長」を見守るような気持ちであることも多いだろうと思う。しかしながら、それと同時にインタビューで喋ったことについて、時間が経っても、ずっとそのまま変わっていないように考えていることも多いように思う。その意味で、アイドルのファンは、実際には「変化しない」ことへの渇望も持っているのだろう。アイドルの語りとは、こういった二律背反に挟まれるからこそ、自由なものではないのであり、そういった制約から自由になるべき、あるいはなりたいという感覚から発された言葉だと感じた。
*14:実際には、そういったものがアイドルの絶対性を高めている、あるいは失わせないことにつながっており、この構造はアイドルにとって必要なものであろうという感覚がある。
*15:坂道グループにおいては、「憧れ」や「アイドルを目指したきっかけ」のような語りがなされることが多い。あるいは、日向坂46のライブを乃木坂46のメンバーが見に来る姿などが、よくファンコミュニティの間で報告されている。
*16:『乃木坂46公式書籍 10年の歩き方』や『日向坂46ストーリー』など。「歴史」をまとめるという試みでは、『櫻坂46展「新せ界」』などをこれに含めてもよい。
*17:「国家によって公式に編纂された歴史書」の意味を援用して、「運営などによって公式に編纂された、過去を振り返る文章」のことを指す。
*18:たとえば、週刊誌報道に関連することや、いわゆる運営上の「大人の事情」と言えるようなものを含まないという意味である。
*19:「正史」の対義語。ここでは、ファンの側が紡ぐ歴史の意味。
*20:2024年の東京ドーム公演を軸に記述するため、坂道グループが議論の中心になることが想定されるが、可能な限り多くのアイドルグループについて取り上げたい。