the end of an era

You are free to be who you are.

長濱ねる『たゆたう』とともに、あの頃を振り返る

毎月、長濱ねるさんが雑誌「ダ・ヴィンチ」に連載しているエッセイ「夕暮れの昼寝」が、一冊の本として刊行された。

もちろんエッセイには色々な読み方があるが、彼女のファンをもう何年もやっている筆者としては、エッセイに書かれた当時の記憶を思い起こし、何なら明確にいつの話かを特定し、色々な資料を持ってくることによって、そのときの本人の感情をより深く追体験するのが、毎月の習慣になっている。

例えば、仕事を休んで五島に帰ったのがいつかというのも、なんとなくあたりをつけている。傍から見れば変な読み方だと思われるのだろうが、一人のファンとして、可能な限り当時の状況を理解して、そして当時どのような反応があったか、当時筆者自身がどう思っていたのかということにも思いを馳せながら、エッセイを深く読みたいという気持ちが強い。

そんなふうに連載を読みながら、当時の出来事や気持ちを言葉にしてもいいと、今の彼女が思っていることに、格別の嬉しさを覚えることもあった。欅坂の頃の話が出ると、たしかに強く反応してしまうが、それだけではなく、骨折の話とか、23歳の誕生日の話とか、福江島での話とか、復帰以降のことも、記憶が新しい分だけ、深く読めるような気がして嬉しかった。

そして、そうやって読んでいる人間だからこそ、「エッセイでは嘘をつかない」という気持ちが本当のものなんだという確信が強くなる。

長濱ねるさんという人間をまるごと見ていきたい。そんな気持ちでファンになっている人間としては、こういう読み方が何より格別な時間だ。そしてそれだけ、当時の気持ちにどっぷりと浸かることができる、そんな上手な言葉選びにも感動する。

 

何年もファンをやっていながら、彼女は少しつかみどころがないというか、なんだか二面的というか多面的というか、それこそ「たゆたう」ように生きているように見えるところもある。でも、こうして一冊の本として読み返すと、半生を振り返りながら、「自分との戦い」の過程を振り返って読むような、そういう本になっていると思う。

僕は彼女とは違うタイプの人間だと思っているし、だからこそ彼女のことが好きだと思っている。それでも、こうして綴られる内容に、それなりに共感することもある。自分をコントロールしているつもりで、でもそれが時々できなくて憂鬱になる。それでもなんとか生きている。そういうところは確かに筆者自身に似ているのかなと思うし、周囲の感想を聞いても、少しずつ彼女に共感しているような気がする。文章を読んだり書いたりしながら生きている現代の若者にとっての普遍的な悩みを、こうして言葉にして綴っているような、彼女の文体に感服する。

筆者が欅坂46や長濱ねるさんを見て過ごしてきたことを思い起こしながら、綴られている言葉に思いを馳せる。芸能界の荒波に呑まれて、というのは使い尽くされた表現だが、それどころではない荒波が襲ってくるような世界にいたわけで、どこか遠い世界で生きているように見えてしまうときもあるが、こうしてエッセイを読み通すと、実際には少し似通った視点で世界を見つめて、同じ世界を生きているんだなと思えるだけで、少しだけ気持ちが楽になる。

 

9月1日の夕方、家にエッセイが届いた。一つひとつエッセイを読み、特装版の最後の書き下ろしエッセイまでたどり着く。X(旧Twitter)のポストでなんとなくどういう話が来るかは知っていたが、それでも読み始めた瞬間から号泣し、人生で何度あったかというくらい泣き腫らしながら、ギリギリの気持ちで残りを読み終える。翌日9月2日はお渡し会だから、なんとか気持ちを整理して、ギリギリの状態で渋谷へ向かう。お渡し会を終え、家に帰ってきて、ウイスキーを浴びるように飲んだ。自分でもどういう気持ちか全くわからない。でも、何も考えられなくなるくらいお酒を飲まないとやってられなくなってしまった。

なんだかよくわからない精神状態で翌朝を迎え、そうしてようやく、このエッセイと、そして自分の気持ちと向き合うことにした。

 

 

 

 

 

 

(ここから先の文章は、筆者自身がここ数年戦ってきた色々な感情と、きちんと折り合いをつけるための文章です。「たゆたう」特装版の全編を読んだ人だけ、読んでほしいと思っています。ネタバレを含みます。)

 

 

 

 

 

 

特装版の最後のエッセイは、書き下ろしで、アイドル時代にあった炎上のことについて綴られている。まずは、「エッセイでは嘘をつかないこと」ということを公言し、そしてここまで書いたように毎月のエッセイを読み込んでいるからこそ、筆者はここに書かれていることを受け取るしかない。

とはいえ、彼女のいちファンとして、あの炎上は、どこか心の片隅に残っているものではあって、彼女の名前で検索をかけると、ときどきそういう投稿が出てくる。単純にそんなこと関係がない、という軽い気持ちで済ませられるような人間ではなかった。

実際、あの映像やその裏にある人間関係の解釈は、様々なものが飛び交っていて、正直なところ、真実は全くわからなかった。いじめなんてするわけがないという盲信でも、謝罪してほしいという非難でもなくて、ただただ真実が知りたかった。でも、真実が知りたい気持ちを口にしてしまうことが、どれだけ彼女を追い込むことか、なんなら相手までをも追い込むかもしれないことを、なんとなくではあるけどわかっていて、絶対このことについて口を開くつもりはなかった。

だからこそ、ダムが決壊したような感情が溢れ出てきてしまって、わけがわからなくなってしまったのだと思う。

 

 

 

 

 

欅坂46の運営は、起こったことや噂・憶測といったものに対して、基本的に沈黙を貫いていたから、当時の運営が静観すると判断したことは明らかだった。

そもそも、いじめが仮にあったとして、当人たちの間で解決していてくれれば、それ以上は何も望まないのだが、彼女が当時18歳・相手が21歳と、もう子供と言えるような年齢でもなく、それなりに大きな話にもなったから、あの事件が二人の中でどういうことになっているかだけは、どうしても気になっていた。

その後の二人の関係性を見れば、まったく険悪なところはなかったのだが、その分だけ逆説的に、その関係性が作り物のように見えそうになる自分もどこかにいた。今思えば、当人たちには、おそらく起きたことに対する意識があって、それがほんの少しだけ透けて見えていたのだろうと思う。だからこそ、W-KEYAKI FES. 2021の3日目、現地で「最高かよ!」という言葉が聞こえたとき、そして、その後の「レコメン!」でその真意が語られたとき、本当に気持ちが軽くなったのを覚えている。

この本に書かれていることが「真実」*1であると認められるためには、相手の言葉が必要なのかもしれないが、まずは、本人の言葉できちんと語ってくれたことが、とにかく嬉しかった。

欅坂時代には、彼女だけでなく、色々なメンバーに対して、様々な噂や憶測が飛び交うこともあった。今でさえ、何が真実で、何が嘘だったのか、明確に語れる人間はそんなにいないはずだ。そんな中で、欅坂46と長濱ねるさんから力をもらっていた。いつまでもこの21人には感謝を捧げたいという気持ちだけは確かで、だからこそ、なんとか折り合いをつけて、気になる気持ちを押し殺しながら生きていた。そんな日々もあったことを、じんわりと思い出す。

この炎上についても、真実か嘘かわからないことの一つだと言われてしまえば、納得するしかないのだが、それでも、本人たちの口から何か言葉が欲しかったというのが本音だ。

何なら、誰にも言えていない秘密なんてたくさんあるのだろうと思う。「人は誰しも秘密を抱えながら生きていく」と言われることは多いが、芸能界がそんなありふれた言葉で片付けられるほど生易しい世界ではないことは、なんとなくわかっている。

だからこそ、2020年7月7日の19時くらいに、当時の平手さんのオフィシャルサイトのURL規則通りに、 nagahamaneru.jp/s/nn にアクセスして、少し異変を感じたとき、「ああ、本当に帰ってくるんだ。いやでも、芸能界につらい思いがあるのだとしたら、またそういう状況になってほしくはない。」みたいな気持ちがあったのを、今でもはっきりと覚えている。

とはいえ、あれから3年、筆者の考えも変わり、彼女も考え方が変わったと口にしており、そして世間の考えもおそらく大きく変わった。いま振り返れば、2010年代後半というのは、噂や憶測といったものに対して、静観するのがいいのか、態度を明確にするのがいいのか、その明確な転換点だったように思う。だからこそ、あの当時の感覚と知識で物事を語り続けてはいけないのだと、こうして何か新しいことが明らかになるのならば、認識をアップデートして語らなければいけないのだと心に誓った。

 

 

 

 

 

そして、このことが彼女の心に重くのしかかっていて、こうして語るしかないくらいまで追い詰められていたことと、それを証明するかのように、普段のエッセイとは違う、ある意味で「ありのまま」の文体で書かれていることに、胸が苦しくなる。

それでも、文章を書きながら生きている人間として、何年経ったとしても、正しく説明することは、前に進むために必要なことなのだろうと信じたい。

そして、何が起こったとしても、欅坂46と長濱ねるさんを見て過ごしてきた日々はなくならないし、なんなら、筆者自身の人生にも、欅坂46というグループに対しても、苦しい気持ちがあったからこそ、あの頃が「青春」に思えてくるのだろうと思う。

 

*1:ここでは「真実と信じるに足る」くらいの意味。