the end of an era

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指原莉乃の卒業とテレビ史の「時代」の変化

 2019年4月28日、HKT48指原莉乃卒業コンサートが行われた。その卒業のアイドル史的意味を語るのは別の機会にすることにして、それとは別に、実感したことがあるので、語っておきたい。

 指原莉乃のアイドルとしての最後は、たぶん大方の予想通りであろう。「これからもHKT48を応援してくれるかな?」であった。これに対してファンが「いいとも!」と応える形で幕を閉じたようだ。

 そして、その2日前、4月26日の「ミュージックステーション」が、アイドル指原莉乃の最後の音楽番組出演であった。そこでも、「私だってアイドル!」「恋するフォーチュンクッキー」の披露の後に、「これからもAKB応援してくれるかな?」「いいとも!」のC&Rがなされている。それも、このC&Rを生み出したとも言えるタモリの前で、である。

 

 今となっては、このC&Rは指原莉乃とそのファンのもの、と言ってもいいのかもしれないが、その始まりは指原莉乃が1位をとった2013年AKB48選抜総選挙からである。そのとき、本人が「タモリさんとの約束」という理由付けをしていることから考えても、タモリへのお礼の意味があった。そう、「笑っていいとも!」という番組と、その司会であるタモリ森田一義)は、指原莉乃がバラエティーにおいて名をなし、HKT48への移籍を経験しながらも、その求心力と認知度を高め、総選挙1位に上り詰めるまでの支えとなったものだった。

 しかしながら、その「笑っていいとも!」という番組は、2014年3月31日に終わりを迎えた。その日の夜行われたグランドフィナーレに、テレビ史における一つの時代の終わりを感じた人も多かったかもしれない。それに続いていくかのように、2016年12月31日にはSMAPが解散し、2018年3月には「めちゃイケ」と「みなおか」が終わっていった。

 総選挙以降も、指原莉乃はたびたびこのC&Rを使うことがあった。それは、タモリという人間がお昼の顔として存在していたことを思い起こさせるものでもあった。

 

 そのC&Rを卒業直前にタモリの前で行う、ということは、アイドル指原莉乃の、タモリという人間へのお礼の一つであったのかもしれない。そして、その卒業によって、このC&Rが見られなくなるということは、「いいとも!」という番組がこの世に存在していたこと、そして多くのタレントを育てていったことが、いつか忘れ去られていく、その始まりのように思えてならない。

 そして、タモリの今の活動状況を考えれば、テレビ上では、タモリ指原莉乃の共演が実現することは、もうないかもしれない。加えて言えば、「いいとも!」レギュラーとして共演したタレント同士が共演することでさえ、その大物化が進んだ今ではあまりない。

 

 そういえば、4月26日のミュージックステーションで、槇原敬之の「世界に一つだけの花」の披露前のトークの際、タモリの口から、「SMAP」という単語が発せられた。もちろん、その場にSMAP本人を呼ぶことができないために槇原敬之が呼ばれたことは明白であったのだが、その単語によって、さらにそのSMAPが存在していたことが、明らかなものとして共有されていったと言ってもいいだろう。このことも、「いいとも!」を象徴する、あるいはタモリSMAPの関係を象徴する一つの出来事と言ってもいいだろう。

 

 指原莉乃の卒業日を決めたのは、他でもない指原本人であって、この2つの出来事が同じ番組の中で起きたことを偶然だと言い切ることはできない。しかし、そこには、2014年3月31日以降も続いていた「いいとも!」の名残が、消え去っていく間際の最後の光を発して、一つの時代が終わっていったことを意味しているのかもしれない。

 

 さて、その「一つの時代」とは何だろうか。あるいは、「いいとも!」が終わったことで、テレビは何が変わったのか。それは、「いいとも!」の後に始まった「バイキング」との関係の中に見ることができる。もちろん、「バイキング」のターゲットがF2,F3層であることは言うまでもないのかもしれないが、それ以上に、「バイキング」はワイドショーであり、時間や人間のつながりの中に真偽のわからない意味を見出すことに総力を捧げている。これに対して「いいとも!」は、正直言ってよくわからない番組であった。でも、そのわからなさが、「いいとも!」の意味なのかもしれない。例えばかつて、タモリ赤塚不二夫への弔辞の中でこのように述べている。

あなたの考えは、すべての出来事、存在をあるがままに前向きに肯定し、受け入れることです。それによって人間は、重苦しい意味の世界から解放され、軽やかになり、また時間は前後関係を絶ちはなたれて、その時その場が異様に明るく感じられます。

そう、「いいとも!」の1時間は、人間にとって、重苦しい意味の世界や時間の前後関係から解放される時間だったのかもしれない。そして、タモリの芸にもそれは色濃く現れており、文脈のない笑いがタモリの芸の中心であった。赤塚不二夫タモリ以外に、そういった矜持を持つ人間は今の芸能界にはおそらくいないだろう。その「いいとも!」が名実ともに終わりを迎える、ということは、人間は、時間などの文脈によって意味づけられた世界から解放される瞬間を失う、ということでもある。

 

 確かに、世代は変わっていく。それは芸能史においては、人の老化とともに起こるものでもある。指原莉乃卒業コンサートにサプライズで出演したのは、タモリではなく松本人志であり、そこに彼女が懐柔してきた「大物」と呼ばれる人物の世代の変化を見て取ることはできる。しかし、松本人志が「緊張と緩和」を笑いの本質としたように、笑いの場でさえ文脈によって意味づけられていく世界へと向かっていくことは、世代より大きな「時代」の変化と言ってもいいだろう。

 

 もちろん、文脈から切り離された時間、というものが必ずしも「いいとも!」のみに存在していたわけではない。例えば「水戸黄門」だってそうだったかもしれないが、これも再放送を含めほとんど地上波で放映されることはなくなった。子どもたちはそう見ていないだろうが、長寿アニメとしての「ちびまる子ちゃん」「サザエさん」「クレヨンしんちゃん」でさえ、最近は時代を表すアニメとして扱われることが多くなり、大人はどうしてもそういう目線でこれらのアニメを見てしまう。まだ現実と切り離された世界観として残っているのは「ドラえもん」くらいだろうか。下手をすれば、これももう怪しいかもしれない。

 

 芸能史における「前の」時代の終わりとは、いつだったのだろうか。今までの検討から、筆者の答えは一つだ。2014年3月31日、「笑っていいとも!グランドフィナーレ」がその契機であり、2016年末のSMAP解散、2018年3月の「めちゃイケ」、「みなおか」の終了を経て、2019年4月26日の「Mステ」、28日の指原莉乃卒コンをもって、「文脈に支配されない時代」は終わりを迎えた。

 

 一方で、SMAPから始まり、AKB48の象徴とも言われるようになった指原莉乃に至るまで、「いいとも!」に出演するアイドル自体は文脈に支配されていた。そういう意味で、「文脈に支配されない時代」とは、赤塚不二夫タモリたちの世代が作り出した、いわば「最後の楽園」だったのかもしれない。

(文中敬称略)