the end of an era

You are free to be who you are.

僕はアイドルが嫌いだ

 自己紹介がてら、タイトルについて語ってみたい。

 前回のブログでアイドルの卒業について触れておきながら、そして、これからもアイドルに関する記事を書く気がしているが、筆者はアイドルが嫌いだ。正確には、アイドルを見ている瞬間に、多幸感と苦しさが混ざったような感情を覚える自分が嫌いになってしまった。

 その経緯を語るには、筆者が初めて推した「アイドル」の話をしなければならないが、このアイドルはかなり特殊だ。アイドルの定義に「アイドルであるという自認」が含まれるのだとしたら、その「アイドル」はアイドルではない。しかしそこにはファンというものが存在していたし、そのひたむきに頑張る姿やステージ・イベントで見せる笑顔は、我々ファンに幸せを与えてくれるものだった。一方で、そのアイドルの、ひとりの人間としての人生が、制限されたものになっていく過程を目の当たりにすることもあった。その「アイドル」本人は、3年という決められた活動期間のあるアイドルだったこともあり、卒業後の人生を、また別の人生として歩み始めていることを知っているから、それ自体でアイドルを推せなくなるほどの苦しさを覚えていたわけではない。

 それから1年くらい後だろうか、筆者が、「キャリアの選択肢は年齢を取るたび、行動を取るたびに狭められる」という価値観を持つようになった頃から、アイドルに対する苦しさを覚えるようになっていったように思う。アイドルの輝きは、何かの代償でしかないのかもしれない、と思ってしまうと、そこに多幸感と同時に苦しさが襲ってくる。もちろん、アイドルをやったことを後悔したと語るアイドルが多いわけではないが、それにはアイドルの発言としてのタブー性と、過去を自己肯定的に物語る人間の傾向があるから、という面もある。

 

 それでも一人だけ、推してもいいかな、と思ったアイドルがいた。それが、欅坂46の長濱ねるだった。彼女の存在自体はテレビ出演(いわゆる「外仕事」というもの)で知ってはいたが、彼女のことを調べるにつれ、惹かれていくようになった。今思えば、それは、彼女の頑張る姿や笑顔、優しさが、かつて推していた「アイドル」に似ていたからかもしれない。そういう事情があるからか、いつの間にかアイドルを見たときに感じる苦しさというものを飛び越えていた。

 しかし、2019年3月7日、「お知らせ、335」と題したブログで、彼女は卒業を発表する。そのブログを読んだ後、筆者は多幸感と苦しさの狭間に連れ戻されたような感覚を覚えた。それには、3年半という短い期間であったこと、そして、卒業後の方向性の不明確さが影響しているようには思う。ファンの心理として、今後の幸せを祈るのは当然のことではあるが、その幸せがどこにあるのかを想像するのは、今までのアイドル以上に難しいように思う。たとえば、前回のブログで指原莉乃の卒業について取り上げたが、その(客観的な)幸せは、卒業の翌々日、NHK改元特番に出た瞬間から、アイドルをやっていたことによる正の影響というものを見て取ることができることからも、保証されていくものなのだろう。

 しかしながら、特に2010年代になってから、アイドルはより厳しい世界になっている。その中で、次の人生を幸せに生きていける人々が多くはなくなっている。欅坂46というグループが特殊なアイドルグループであるとはいえ、写真集が20万部売れ、グループで1,2を争う人気メンバーになった彼女が、どう幸せを掴んでいくかということにでさえ、不安定な要素が多い。

 

 そういう意味で、多幸感と苦しさの狭間にまた戻っていき、そこから苦しさを飛び越える活性化エネルギーは都度増していくような気がしてならない。それでも、アイドルには人を惹きつける何かがあるし、それに惹きつけられるように、筆者はアイドルを見てしまう。冒頭で、アイドルが嫌いだ、と言ったが、「好き」の対義語としての「嫌い」ではなく、「好き」の近くにある「嫌い」に嵌っているような気がする。