the end of an era

You are free to be who you are.

「ガラス」を「割る」行為に見る音楽と社会

 タイトルの時点で終着点が見えている気がするが、こんな話もしてみたい。

 日本のポップやロックにおいて、「ガラス」を「割る」という歌詞には、明らかな原点がある。それはもちろん、尾崎豊の『卒業』(1985)だ。(『卒業』の歌詞は「窓ガラス壊して」であるのだが、なぜかそれ以降では「割る」ことになっている。)

 この曲に対する評価は様々なされているが、少なくとも、時代の潮流としては、学校が締め付けの場として、そして大人になるために通らなければいけない過程として、2019年現在以上に強力に機能していたがゆえに、当時の若者たちに受け入れられていったものだろう。しかしそれだけでなく、尾崎豊は、歌詞世界の中で、学校から卒業したとしても、何かが「俺」を縛り付ける、ということを示している。

 そして、そのアンサーソングなのか、アフターストーリーなのか、はたまた全く別の考えなのかはわからないが、多くの曲がこの「ガラス」を「割る」行為を描写している。その中で、売れたと言える曲をいくつか取り上げておきたい。

 

 まず、そのひとつが、とんねるずの『一番偉い人へ』(1992)だ。この曲は、明らかに尾崎豊の『卒業』を意識して作られている歌であることはほぼ確実と言っていいだろう。その根拠は、次の歌詞にある。

卒業することで終わった 大人たちを非難すること

社会とは 窓ガラス割らないルール

しかし、これを言葉の通り尾崎豊への批判やアンサーとして受け取るのはいささか早計だと思う。他の部分の歌詞では、大人たちを非難することをやめ、「大人」になっていくことを自覚しながらも、何をするべきか、そしてアイデンティティーを求めて叫ぶ姿を描写している。それは、尾崎豊の『卒業』のアフターストーリーとして、学校からの束縛を受けなくなった「大人」として受ける束縛や苦悩そのものである。そして、尾崎豊と同じように「愛」に救いを求める歌詞も興味深い。 

 

 次に、時代は飛んでYUIの『My Generation』(2007)を取り上げたい。この曲は16の時、本人が歌手になるため高校を中退したときを振り返って歌った曲である。この曲の歌詞には、次のようにある。

窓ガラス割るような 気持ちとはちょっと違ってたんだ

はじめから自由よ

尾崎豊の『卒業』から22年経って、学校というものを取り巻く社会は変わった。正確には、高校を取り巻く社会の見方は変わった。高校進学率の増加・大学進学率の増加から、高卒というステータスの価値が失われつつあったということ、特に芸能界においては、その活動時期の低年齢化が進むにつれて、高卒の価値が失われていたということによって、高校というものがたとえ締め付けの場であったとしても、そこから逃げ出す自由が保証されるようになった。そして、逆に、学校内での非行を社会化する動きが見られるようにもなっていった。その点で、「窓ガラス」を「割る」ような非行による自己表現ではなく、社会において「窓ガラスを割らない」ような自己表現をすることが求められるようになっていった。そういった2000年代の象徴として(もしかしたら尾崎豊が勝ち取ったものなのかもしれないが)、「はじめから」の「自由」がある。

 しかし、『My Generation』には、そうやって学校を中退していったにもかかわらず、「夢を信じきれない」自己の弱さとの闘いが描かれている。これは、夢を追う、あるいはやりたいことをやる、という行為の孤独さを象徴しているように思う。これが所以かはわからないが、YUIは一部メディアで平成の尾崎豊と呼ばれることがあった。

 

 最後に、お察しかとは思うが、欅坂46の『ガラスを割れ!』(2018)を語っておこう。この曲において、「ガラス」は、自由を縛り付けるもの、邪魔するものとして描かれており、その「ガラス」を割って、がむしゃらにやりたいことをやってみろ、ということを示している。尾崎豊『卒業』の「窓ガラス」が明らかに実物を想定しているのに対して、実際に自由を縛り付ける「ガラス」というものは存在しないが、雑誌かどこかのインタビューで(映画『響 -HIBIKI-』の)月川監督が言っていたように、作詞者・秋元康がセンター・平手友梨奈尾崎豊を重ねているのだとすれば、この「ガラス」もまた抽象的には尾崎豊の「窓ガラス」と同じようなものである。

 しかし、2000年代からの流れと同じように、平手友梨奈もまた、学校にだけ縛り付けられている人間ではない。むしろ、平手友梨奈を、あるいは若者を縛り付けているのは、大人たちや社会、もっと広く言えば周囲の人間である。そこには、尾崎豊の時代から考えれば、明らかに自由がありながらも、生きづらさという明確にできない不自由さが存在する。その不自由さの象徴として、ここでは「ガラス」が使われている。

 

 『一番偉い人へ』と『ガラスを割れ!』は、同じ秋元康という作詞者による詞ではあるが、その曲が作られた時代背景は明らかに異なる。何をするべきかを問う『一番偉い人へ』は、何をするべきかを悩む個人の解決策を見つけ、導くのは(学校における教師に変わるような)「偉い人」である、という価値観が内在している。1980年代から1990年代の学校や社会は、個人のやりたいことよりも、学校や社会がその適性を見極めて、それに従って生きていくことを求めていたように思う。それに対する反抗として、尾崎豊や、アイデンティティーを求める『一番偉い人へ』が生まれていたのだろう。

 それに対して、やりたいことをやれと主張する『ガラスを割れ!』は、やりたいことは個人の中にあって、それを縛り付けるのが周囲や自分だ、という価値観がある。2010年代の学校や社会は、個人のやりたいことと、学校や社会の見極めた適性のマッチングによって、生き方を決められているように思う。そういった、やりたいことを尊重するキャリア論がある一方で、やりたいことが完全に達成されることは少ない。そして、その自由に対する責任は、たとえそれを受け入れられない学校や社会に原因があったとしても、個人が負うものである。そういった意味での自由の中にある縛り付けという存在が、この曲の背景にはある。

 しかし、やりたいことが明確にある強い個人、というものは、2010年代においてもそう多くはない、ということには気をつけなければならない。平手友梨奈にやりたいことが明確にあるのかどうかはわからないが、やりたくないことは明確にある、という点で、「自分らしさ」像を持っている強い個人である。二面性を歌った『アンビバレント』以降は異なった個人像があるかもしれないが、少なくとも『ガラスを割れ!』においては、一貫して強い個人が描かれている。

 そして、『ガラスを割れ!』にある「愛」を否定し「孤独」を肯定する歌詞にも気をつけなければならない。やりたいことをやる、という行為の孤独さは、ここにも現れている。

 (初期の)YUIも、(初期の)平手友梨奈も、愛すらない孤独さの中で夢や自分を追いかけたという意味で、尾崎とはまた違う、平成のカリスマと言える存在であったのかもしれない。

(文中敬称略)