the end of an era

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欅坂46 3rdアニラ武道館公演 (2日目) の感想

 武道館で行われるライブを見るのに、筆者はなぜだか大阪に向かっていた。推しの最後となるかもしれないライブを見るためには、仕方ない話ではあるのだが。

 端的に感想を述べると、濃い100分だったし、一瞬映る推しの表情を見るとペンライトを振るのを忘れるくらいには嬉しかった。と同時に、「微笑みが悲しい」という気持ちにもなった。

 

 今回のライブの大きな世界観としては、3rd Year Anniversary Live 大阪公演(以下、大阪公演)の最後の曲から始まり、そのアンコールとして3rd Year Anniversary Live 武道館公演(以下、武道館公演)を位置づける、というものであった。大阪公演が比較的明るい曲が多く、映像も多いセットリストだったのに対して、武道館公演は、ユニット曲やソロ曲を含まず、メッセージ性の強い曲の多いセットリストで、かつ(1期生)メンバー全員がほぼフルでパフォーマンスをし続けるというものであった。武道館公演(のLV)だけを見た人間としては、これはアイドルグループなのか?という疑問を抱くほど、アイドルグループ感はなかった。一方で、大阪については、様々な評を見る限り、良くも悪くも逆にアイドルグループ感のある演出だったらしい。セットリストだけを見た筆者も、映像等を使いながらの演出は、アイドルらしいものであったのだろうと思う。

 ここで、改めて『欅共和国2017』を見返してみると、そこには明らかにアイドルらしさとアイドルらしくなさが共存している。ユニット曲やけやき坂46の曲では、アイドルらしさが感じられる一方で、欅坂46全体での楽曲では、それとは程遠いアイドルらしくなさ、あるいはアーティストらしさが感じられる。けやき坂46というグループが、欅坂46との違いは何か、という問いとともに成長してきたとすれば、後にたどり着く「ハッピーオーラ」という答えへとつながる過程を、そこに感じ取ることができる。しかし、それは同時に、欅坂46の世界観を「クール」として決定させるものでもあっただろう。そして、「ハッピーオーラ」、つまり見ている人を笑顔にさせる力というものは、アイドルにおいて根源的なものなのではないだろうか。

 たしかに、けやき坂46の「アイドルらしさ」と大阪公演の「アイドルらしさ」が同じものである保証はないのだが、けやき坂46が日向坂46として完全に独立した後、欅坂46の中に「アイドルらしさ」を求めようとした結果が大阪公演なのだとすれば、「アイドルらしくなさ」との闘いがそこにあるという点では共通している。

 しかし、平手友梨奈は『ROCKIN'ON JAPAN』2019年6月号で大阪公演に対する違和とも言えるものを述べているし、「欅坂は、ずっと、世の中に何かを届けていくグループだと思ってるから」ともコメントし、大阪公演の演出に関わっていなかったこと、武道館公演の演出に関わっていることを明かしている。もちろん、平手友梨奈の意見によって全てが決定されているわけでないはずだが、武道館公演には「アイドルらしくなさ」へと向かっていく方向性があった。

 蛇足的ではあるが、けやき坂46が目指すものを手探りで探し、見つけ出し、向かっていくリアリティーショー*1なのだとすれば、それは独り立ちすることができなかった「弱い」個人の物語であって、欅坂46(の平手友梨奈)のように明確な自己像へと向かっていく「強い」個人の物語とは対照的である、ということも、大きな差異の一つであり、前回の記事で述べたように、後者はアイドルの「物語」とはなりにくい、ということにも、「アイドルらしくなさ」へと向かっていく方向性がある。

 そんな、グループとしての「アイドルらしくなさ」とは対照的に、グループの中には「アイドルらしい」個人が存在している。ファンの贔屓目かもしれないが、長濱ねるもまた「アイドルらしい」個人であっただろう。そういう点で、「アイドルらしさ」と「アイドルらしくなさ」の共存が、欅坂46に見られたグループの形だったのかもしれないが、けやき坂46の独立によって、そして、武道館公演のようなユニット曲・ソロ曲なしの演出によって、欅坂46というグループ像が、徐々に「アイドルらしさ」から離れていっているような気がする。

 その公演で一瞬見られる推しの姿をもって、幸せを享受することはできるし、握手会に行けば、推しと会話することができる。そこにあるのは確かにアイドルとしての姿ではある。しかし、パフォーマンスやMVにおいて、「アイドルらしくなさ」へと向かっていく方向性があるとすれば、それはアイドルなのだろうか。

 そう考えた時、平手友梨奈が思い描くグループへの「恋」と、長濱ねるが思い描くグループへの「恋」の、「どっちか一人」が「もし叶ったらどうなるの?」という思いを持ち、そして、その2人の微笑みを見て、「微笑みが悲しい」という感想を抱いたし、それでも「大切な二人」でいてほしいという思いはある。

 

 さて、ライブの感想を述べるのにこんな話を出すのも良くないかもしれないが、元乃木坂46生駒里奈がセンターを務めた『FNSうたの夏まつり』(2016)での『サイレントマジョリティー』の話をしておきたい。AKBグループ、乃木坂46欅坂46から集められたメンバーが、選ばれた曲をパフォーマンスするという企画であったと記憶している。彼女はその後のインタビュー*2で、欅坂46と自分たちの対比として、10代なりの「レジスタンス」と「過去にレジスタンスだった人たち」という像を提示し、それによって表現に対する違和感が生じていると述べている。

 そこで、10代なりの「レジスタンス」として思い浮かべられ、よくセンター・平手友梨奈と比較される人間として、尾崎豊について考えておきたい。尾崎豊は、10代のうちから大人たちへの反抗をテーマに曲を作り、熱狂的なファンを獲得するほどの人気であったが、20歳以降は突然の渡米、覚せい剤取締法違反による逮捕など、生活として混迷を極めていき、最終的には26歳で肺水腫により亡くなる。2個ほど前の記事では尾崎豊の曲の歌詞について取り上げたが、たしかに、尾崎豊の登場以前と登場以後では、人々の意識に大きな違いがある。尾崎豊という「レジスタンス」のモデル、そしてその栄枯盛衰のモデルが生まれたということだ。音楽界では、尾崎豊に限らず、魂を売り渡したかのように、圧倒的な表現の才能を持って世間に名を轟かせるも、それが長くは続かなかった、というアーティストは数多くいる。そのことに対する認知は、平手友梨奈の中にもあるだろう。たとえば、『ROCKIN'ON JAPAN』2017年4月号での「今は今しか出せないから、今の私を見てください」や、『SONGS』 2017年4月6日での「(5年後は)結婚しているかなと思います」が、その現れだと考えられる。

 ただ、平手友梨奈を中心とするメンバーの様子が作詞者や作曲者、振り付け師を含む演出家に影響を与えることによって、楽曲の世界観が作られているとはいえ、欅坂46は作詞も作曲もしない、という点で尾崎豊たちとは決定的に異なる。「レジスタンス」という言葉は『サイレントマジョリティー』についての表現かもしれないが、ともかく若者の感情の表現者としての欅坂46平手友梨奈が、どこまで続いていくのか。そしてそれは「アイドルという概念の拡張」としてなのか、「アイドルではない形」としてなのか。推しが卒業した後も、そのことには興味がある。

(文中敬称略)

*1:例えばこれは、「日向坂46ストーリー~ひらがなからはじめよう~」で感じられる

*2:https://news.dwango.jp/idol/17717-1608