the end of an era

You are free to be who you are.

『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』という解答(ネタバレあり)

 『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』(以下シンエヴァ)という、エヴァ最終作になるであろうこの作品は、庵野秀明が、エヴァというシリーズを、どう終わらせるのか、悪い言い方をすれば、序破Qで荒した新劇場版の物語に対して「どう落とし前をつけるのか」、その問いに対するひとつの解答だと思っている。

 その解答を、長い人に言わせれば25年も待たされているわけだし、その解答をどう受け止めるかは、正直言って一人ひとりが考えるべきことであって、人それぞれでいい。ただ、その受け止め方を共有したいという気持ちはあるし、だからこそ、筆者はいま筆を走らせている。

 先に言っておくが、エヴァを語るということは、庵野秀明という人間を語るのとほぼ同義と言ってもいいほど、両者は切っても切れない関係にある。エヴァシリーズというものは一度途切れた作品であり、そこに一貫しているものは、シンジではなく庵野だ、という立場を取る。

 以降は、本当にシンエヴァを見た人だけが読んでもらえれば嬉しい。

 

 映画館でエンドロールが流れる中、僕が最初に思ったことは、「庵野はこれでよかったのか?」という疑問である。

 そのひとつの理由は、「内容のわかりやすさ」であって、人類補完計画の具体的な内容は、ゲンドウの口から語られ、ヴンダーの起源など、Qで「わからない」とされていたことが、ほぼ全て事細かに表現されている。これまで、というか「最終2話」「Air/まごころを君に」「エヴァQ」と、わからない物語を展開することが、庵野の得意技だったと言える部分はある。

 そしてもうひとつの理由は、「この終わらせ方を選んだ理由」である。エンドロール中に物語を整理していて思ったこととして、父と戦い、父を否定し、自らの手で、自らの形で、人々を救おうとするシンジは、明朗快活であって、そこに鬱屈としていたシンジの姿はない。これが、25年待った答えなのか?と、素直に疑問が生じた。この疑問を、整理しながら紐解いていきたい。

 

 まず、このシンジが選んだ世界とは、どういった世界だったのかについて、ゲンドウの目指した世界との比較で振り返っておきたい。ゲンドウは、ユイともう一度会いたいがために、つまり、「ボク」と「キミ」のエゴのためだけに、「ボク」と「キミ」の境界線をなくそうとする。以前、『天気の子』の記事で、破におけるシンジの「世界がどうなったっていい。だけど綾波だけは絶対助ける」と言ったシーンを、『天気の子』のストーリーと重ね合わせて論じた。どちらかといえば、ゲンドウの計画は、破のシンジの考え方に近い。

 しかし、シンジは、破では世界を犠牲にしてでも綾波を助けたいと願ったが、2度目の『シンエヴァ』では、それを選ばなかった。人間が人間として生きて、そこに人間ならではの交流が生じる世界を選んだのである。そこに、綾波やカヲルとの関係性はない。

 それに呼応するように、『シンエヴァ』には、「人間味」というサブストーリーが設けられている。アヤナミが人間味を獲得していくシーン、ミサトがQでDSSチョーカーを起動しなかったシーンなど、これこそが人間らしさだ、という伏線が張られていたことに気づく。

 確かに、綾波もカヲルも失い、「キミ」のいない世界になったとはいえ、LCLによって一体化できるというゲンドウの理論をもってするならば、シンジがなぜこの選択をしたのか、それがはっきりとしない。ただ一つ言えることがあるとすれば、この物語はもはや「セカイ系」ではない。「ボク」と「キミ」の関係は、世界の存亡と関わらないし、逆に言えばゲンドウを否定することによって、「セカイ系」を否定したとも言える。「セカイ系」の始祖と言っても良いエヴァシリーズが、最後の最後で「セカイ系」を否定したことに、ただただ驚くしかない。

 

 ここまで物語の話をし続けてきたが、それだけではこの作品を捉えることができない。先程も述べた通り、エヴァシリーズは庵野という人間と切っても切り離せないからだ。

 エヴァシリーズを見るにあたって、時々使われることのある考え方として、「シンジは庵野の現し身である」というものがある。そして、ラストシーンの宇部新川駅が出てくるところは、その現し身理論を補強するものである。(庵野の生まれが宇部のあたりである。)

 その考え方をとったとき、シンジが明朗になる、ということは、庵野が明朗になった、ということに他ならない。実際、この終わり方をさせようとする時点で、庵野秀明という人間が鬱屈な人間でないということは言うまでもないであろう。エヴァの呪縛に捕らわれていた庵野が、呪縛から解放されるまでに25年、Qから数えても8年以上かかった、というのであれば、納得せざるを得ない。

 さて、Qからシンエヴァまでの8年以上の間に、日本アニメ界には様々な作品が登場した。新海誠の『君の名は。』や『天気の子』はその代表であると言えるだろう。そして、『天気の子』は、ゆるやかな「セカイ系」であると言ってもいい。それだけでなく、エヴァが始まってから25年、「セカイ系」やそれに類するもの、「エヴァっぽい」と言われるものは、無数に生まれてきた。アニメ版放送開始当時は主流ではなかった物語の形が、今や大衆化されるに至っている。

 そういう変わってしまった時代感の中で、庵野が「セカイ系」を否定した終わり方を取るのであれば、それは現代の大衆化された「セカイ系」に対するアンチテーゼであり、その意味で、庵野の根底に流れる非大衆迎合的な性格というものを垣間見ることができるのかもしれないし、ボクとキミの関係程度で世界は変わらないという諦観もあるのかもしれない。

 そう思うと、この終わらせ方を選んだことに納得がいく、というだけなのかもしれないが。

『僕たちの嘘と真実』―天才の遺したもの

 推しが卒業したことによって欅坂46というものから離れて、もう1年を超えた。ただ、新たなアイドルグループの形を模索した欅坂46が、どういう形になっていくのかについては気になっているし、何より、平手友梨奈という人間には興味がある。そういう興味で、あるいは怖いもの見たさで、『僕たちの嘘と真実 Documentary of 欅坂46』を見に行ってきた。ただ、当然、一瞬映る推しの姿を見に行っているという気持ちがないわけではないが。

 

 前置きはこれくらいにして、単純に見た感想を述べておくと、高橋栄樹監督作品であることもあって、ドキュメンタリー映画として完成度が非常に高い。『3年目のデビュー』が、アイドルの歴史をまとめたもの、としか思えなくなってしまうくらい(それはそれで日向坂46にとって非常に価値あることではあるのだが)、ドキュメンタリーであり映画だな、と思った。

 

 ただ、タイトルについては、正直、何が真実で何が嘘か、よくわからないな、という印象を受けた。明確に真実だと言えることは、『10月のプールに飛び込んだ』が本当の9thであったことくらいだろうか。平手友梨奈がインタビューに答えたくないと思っている以上、そして本人の口から真実が語られるとも限らない以上、真実の輪郭を映像とインタビューで描き出すのがドキュメンタリーの醍醐味なのかもしれない。

 

 まず、映画のはじめから、平手友梨奈という人間の見えていなかった部分を知ることになる。センターをやること、あるいは人前でパフォーマンスをすることに対して、緊張感と重圧を感じる平手の姿を見るのは、正直言って驚いた。そして、こちらは映像として見ていることではあるが、初期の平手が人に対して言葉を(おそらく)正直に発している姿を見ると、どこかで歯車が狂った瞬間があったのだろう、と思わされる。表情も、喜怒哀楽も、明らかに豊かだったなぁ、とも思う。

 その歯車が狂った瞬間は『不協和音』だった、ということは、映画を見ると感じさせられる。その理由が、『不協和音』の歌詞世界が孤独であること、というのは、『不協和音』につけられた「魔曲」という異名が概ね的を射た表現だったのだろうと思う。さらに、この後、5~8thシングルにかけて、平手の歌詞世界への没入が深まっていくのだろう、と思う。

 

 平手友梨奈という人間は、「天才」であるとよく表現される。その天才性はどこにあるか、と問われると、表現力だと答えたくなるし、それが間違った答えだとは思わない。ただ、平手の天才性は、過度とも言える共感性や、使命感といったものにも現れていると思う。平手の口から、「グループとして」という言葉が発せられた機会は、何度かあったように思う。正確には覚えていないが、長濱ねるとの会話の中で、「すごいと言われるグループにしたい」といった話をしていた、ということを耳にしたことがある。歌詞世界に共感しそれを表現することを使命として感じていたのではないだろうか。そして、その使命に対して、自身の体力や精神力にかかっているリミッターを外してでも果たすということも、彼女の天才性の一つなのではないか。

 映画を見ているだけでも、ともすれば、表現のためには命さえ犠牲にしかねない、そういう怖ささえ感じさせるものがある。

 

 そして、映画の焦点は、「平手のいない欅坂46」の苦悩にも当たっている。様々な場で平手のいないライブを経験する中で、平手の天才性を乗り越えようと苦悩する姿は、結果として「改名」というところまで至ったことを知っていると、凄まじい苦しさを持って襲ってくる。映画の中でも、平手と違った表現を求めることによって、乗り越えるための一筋の光が見えているような気もしたが、最終的には、過去の自分たちと闘うことよりも、新しい坂道を登っていくことを選んだ。

 

 結局のところ、欅坂46というグループは、平手友梨奈の天才性によって支えられていたということを、目の当たりにさせられた、という他ない。ただ、平手友梨奈がその表現力を発揮するためには、たとえ「バックダンサー」だったとしても、他のメンバーがいることが必要だったのだろう、とは思う。そして、欅坂46は、アイドルグループに新しい形を生み出した、というより、いち表現者であり、アーティストという枠だったんだろうと、今振り返ると思う。

 

 少し脱線して、前回の『3年目のデビュー』の記事で書いた「アイドルの卒業」についても触れておきたい。今泉佑唯と長濱ねる、この2人は欅坂46を語る上で、平手友梨奈の次に外すことのできない2人であることもあって、その姿が描かれていたのだが、残りの卒業メンバーについては、映像には映っても、ほとんど触れられることはなかった。特に、9th選抜発表後の卒業メンバーについては、その理由が選抜制度導入であるかもしれないにもかかわらず、表現されていなかったことには疑問が残る。そこに焦点を当てるには、映像とインタビューでは表現しきれないと判断したのかもしれないが。

 

 そして、ライブ映像という「音楽」を中心としたドキュメンタリー映画を作るにあたって、その臨場感を上げている演出においてもついでに触れておきたい。1度見ただけなので確実なことは言えないが、おそらく、ライブ映像の一部が、かぶせなしの生歌で使用されていると思う。その瞬間の息づかいや声がわかることで、彼女たちの生き様を感じられる、そういう表現なんだろう、と思った。このあたりは、Blu-ray化されてから検証されるのを待ちたいと思う。

 

(以下、蛇足)

 人間は、立場が変われば書く文章も変わるもので、文章の書き方が変わったなぁ、と思ってしまう。文体は場面に応じて調整できるものだが、思考回路というものは調整できない。自分という存在を持つことも大事なのかなぁ、とは思うが、それが困難な道であることは、欅坂46という存在が維持できなかった様を見ていると、強く感じてしまう。

『3年目のデビュー』と青春

 記事を書くのが久しぶりになってしまうが、もう2019年7月30日から1年が経つ。推しをもう1度見る機会を100年でも待つつもりで、卒業後、推しの残した(と勝手に思っている)日向坂46のライブに行く機会が増えた。もちろん、『日向坂46ストーリー』を読んでいたし、その数奇な運命と、その中で戦ってきたメンバーの強さを知るたびに、魅力を感じている今日この頃である。そんなわけで『3年目のデビュー』を観に行ってきた。


 まず、この映画は、"日向坂"46のドキュメンタリー映画であって、"けやき坂"46のドキュメンタリー映画ではない。分かりやすく言えば、武道館までの、けやき坂がアンダーでしかなかったような、本当に苦しい時代の描写は最低限になっている。むしろ話の中心は、「3年目のデビュー」を迎え、日向坂46として活動するようになってからの1年である。
 もちろん、けやき坂46時代の詳細は『日向坂46ストーリー』に譲るところではあるのかもしれないが、日向坂46の、あるいはけやき坂46のメンバーには、1期生がインタビューで語るように、ひらがな12人時代から、あるいは長濱ねるから受け継がれる精神がある。それが、けやき坂と日向坂を貫く一つの芯のようなものであるような気がしている。それを「ひたむきさ」と表現するのか、「謙虚さ」と表現するのかはわからないが、ともかくそういう芯がひらがな時代からあることが、表現しきれていないような気がした。ただ、使われていたひらがな時代の映像素材を見る限り、それを表現できるほどの素材を撮り溜められていなかったのだろうし、仕方ない部分もあるとは思う。

 もうひとつ、けやき坂が欅坂との違いを求め、たどり着いたものとしての、「楽しさ」や「笑顔」でさえ、いつ生まれたのか明確に描かれてはいないように感じた。作中でも、『ハッピーオーラ』が使われるなど、それを表現しようとしているところは見られたが、あくまでそれが分かるのは、元々「ハッピーオーラ」という言葉が使われるようになった理由を知っている人だけのような気もする。

 とはいえ、長濱ねるの数奇な運命から始まる、けやき坂46というアイドルグループの歴史が、短い時間であったとしても一つの映像作品に刻まれたことは、長濱ねるのファンとして、嬉しい限りではある。同じように、主軸とは言えないながらも、長濱ねるの欅坂からの卒業や、柿崎芽実井口眞緒の卒業理由を描いたことにも、誠実さを感じるところはある。アイドルとは、その理由が何であれ、得てして卒業というものと無縁ではいられないのだと思うからだ。

 

 ここまでが、長濱ねるのファンである筆者が思った、率直な感想である。そして、ここからはアイドルというものをメタ的に見た話をしたいと思う。

 

 多忙さを絆で乗り越えて夢へと向かっていくというストーリーは、アイドルのドキュメンタリーを作るときに、いやより広く言って、青春群像劇を作るときによく使われる手法である。たしかに、アイドルには、青春群像劇の主軸たる要素が揃っている。困難と絆、そして高い目標というものがあり、それを乗り越えることこそが、アイドルとして成長していくために必要なものである、ということに異論はない。

 ただ、だからこそ、アイドル活動とは(メンバーにとっての)青春であるということを感じざるを得ない。筆者もまだ若いと言われる歳かもしれないが、青春というものを客観的に見ることをついついしてしまう癖がある。『青春の馬』も、作中でも非常に印象的な曲として扱われているし、実際発表されたときの印象もかなり強かったように思う。

 作中でもある程度表現されている通り、走り続ける人々にはいつか限界が来る。それがどのように来るかについては、色々な形があると思うが、それこそ長濱ねるのように、限界が卒業という形で現れることになることもあるだろうし、休業のことだってあるし、もしかしたらスキャンダルというものさえ限界の現れなのかもしれない。

 青春から生まれる力というものを、我々ファンは消費している、とさえ言えてしまう。それを見ることがアイドルを見る行為の本質なのだとしたら、少し悲しさが混じってしまうような気がする。そう考えると、成熟したアイドルを見る安心感というものがあることを理解するし、成熟したアイドルの意義という問いへと戻っていくような気がする。

 

 しばらく文章をかかないうちに、文章を書くのが下手になったような気がするが、生の感想として、認めさせてもらいたい。

『天気の子』にトゥルーエンドはあるのか(ネタバレあり)

 しばらく前、『天気の子』を見に行ってきた。僕が映画館を出た直後の感想は、まゆりエンドなのかな、という気持ちだった。ただ、正確に考えてみると、ゲーム『Steins;Gate』とは、状況設定が違うことを確認しておきたい。たしかに、β世界線(特にまゆりエンド)では、まゆりが生きていくかわりに第三次世界大戦が起こる世界線で生きていくことを選択したわけだから、その点で世界をマイナスの方向に変えたことを肯定したエンドではある。ただ、α世界線に戻ったとしても、待っているのはSERNの支配によるディストピアであって、岡部とまゆりと紅莉栖という3人の物語も、世界全体も、結局2人両方を救う世界線シュタインズゲート世界線)にしか、救いは存在しない。

 より概念的に言えば、ボクとキミの関係が(具体的な中間項の有無はともかくとして)世界の存亡や危機と関わる物語における、「ボクとキミ」と「世界」の関係性は、ボクとキミが結ばれる、あるいは生きている世界線こそが幸せな世界である、という関係か、ボクとキミが結ばれることによって世界に危機が起きる、という関係かである。

 そう考えたとき、『天気の子』は、『君の名は。』や『Steins;Gate』とは対照的であると言える。これら2作品が前者の関係であるのに対して、『天気の子』は後者の関係である。

 

 後者の関係を持つ作品をほかにひとつ思い浮かべることができる。「青空より僕は陽菜がいい、天気なんて狂ったままでいいんだ」という帆高のセリフを聞いたとき、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』(以下、エヴァ破)の最後、シンジが「世界がどうなったっていい、だけど綾波は、せめて綾波だけは、絶対助ける」と言ったシーンを思い出さずにはいられない。実際、結果として『天気の子』では3年間東京に雨が降り続けるわけだし、『エヴァ破』ではサードインパクトが起きかける。『エヴァ破』はそれを一度見ただけで解釈するには難があるし、続編では実際には助けられなかったことが明らかになってしまうわけだが、それをわけがわかる形で、つまり少なくとも当人たち2人と観客は、当人たちが世界をマイナスの方向に変えてしまったことを認識できる形で描いたことには、ひとつの意義があるのかもしれない。

 

 『天気の子』公開後、ノベルゲーのようなルート分岐が想定できる物語展開であることが話題になったし、実際、この物語に、様々なifがあることは事実だろう。

 では、その中に、こういうエンドにならない世界はあったのだろうか。『天気の子』世界の因果律としては、帆高が新宿にやってくる1年前から、陽菜が人柱にならない限り、世界を「救う」ことはできない。陽菜と世界、どちらを取るエンドが良いエンドか、という話は、監督が観客に投げかけた最大の「問い」であるだろうから、それは置いておくとして、陽菜を救うのであれば、最良の結末は映画世界の通りにしかなりえないことが決まっている、と言える。

 ここからは、仮定の話である上に、ADV的な話であるが、一応検討しておきたい。『天気の子』世界において、過去へのタイムリープができるとしよう。中学3年生の帆高が、何らかの方法で代々木の廃ビルへやってきて、「天気の子」になろうとする陽菜を止める、という行為が考えられる。もちろん、その時点では2人は赤の他人だし、そう簡単に止めることができるとは言えない。一応、映画世界ではそのことも可能だとする。その場合、誰か他の人柱が必要である。それ以上に、帆高と陽菜が経済的にも精神的にも支え合っていたという過程も、2人が結ばれるために必要なことだったはずで、その過程すら陽菜が「天気の子」であったからこそ生じたもののはずだ。たとえ、『Steins;Gate』のシュタインズゲート世界線における岡部と紅莉栖のように、『君の名は。』の瀧と三葉のように、運命的な再会ができるとしても、そこに2人が結ばれる理由がない。さらに言えば、そうなったとして、経済的に困窮している陽菜が幸せに生きていける保障はない。

 そういうことを考えていくと、『天気の子』世界の因果律と、状況設定を前提にした場合、陽菜も世界も救うことのできるエンド(これがタイトルで想定している「トゥルーエンド」)は存在しない。というか、因果律と状況設定が、タイムリープという飛び道具を出してきたとしてもトゥルーエンドになるストーリーが想定できないように組まれているということを再確認させられた。つまり、陽菜のいない晴れの世界か、陽菜のいる雨の世界か、の2択を突きつけられているし、どちらかに世界は収束するように作られている。

 

(以下、蛇足)

 『天気の子』を見に行ったのとちょうど同じ時期、現実世界は、どこまで収束するのだろうか、なんていうことを考えていた。きっかけは前回の記事の長濱ねるの卒業なわけだが、日向坂46の元となったけやき坂46は、長濱ねるが最終オーディションの直前に母親に長崎に連れ帰られたことからできたグループであるし、長濱ねるは、ことあるごとに元乃木坂46伊藤万理華が、自分がアイドルになったすべてのきっかけだ、と言っている。ということは、因果としては、伊藤万理華乃木坂46にいたからこそ、日向坂46は存在している、と考えることができる。ただ、実際、伊藤万理華乃木坂46にいなかったとしたら、今の坂道グループの形はどうなっているのか、現状と同じような形を取っているのか、それは誰も知り得ない。

(文中敬称略)

長濱ねる 卒業イベント『ありがとうをめいっぱい伝える日』~アイドル人生の「意味」~

 昨日、2019年7月30日、最後の"アイドル"長濱ねるを見るために、幕張メッセに行ってきた。今も、その余韻が残っているので涙もろくなっているくらいではあるが、筆者なりに、思っていることを書き記しておきたい。

 

 ステージ構成、無料開放されていたホールの展示、どれを取ってみても、どこまでも長濱ねるは長濱ねるなんだなあ、ということを思い知らされた。というか、筆者が彼女を推しているのは、その謙虚さやひたむきさ、その中でも見せるちょっとした拙さ、それ以上に言葉にできない人を癒やす雰囲気に惹かれたからに他ならないし、彼女はそんな生き方を、アイドル人生の最後、会場のお客さん全員のお見送りというところまで、貫いていた。

 それでも、「心地いい時間」だったのかもしれないアイドルから、彼女が卒業するに至った、未来に対する強い意志というものを、感じ取らずにはいられなかった。彼女の言った「自分のパワーがからっぽになりかけていました」「人前に出ることから少し距離を置きたい」という発言は、たしかに一人のファンとしては苦しい思いがある。とはいえ、前を向いて生きている彼女が、そして、4年前の夏、衝動に駆られるようにオーディションに応募し、今度は自分の意志で卒業することを決めていった彼女が、後悔なく、どこかで生きていくことはできるだろうし、そうあってほしいと願うことしかできない。

 

 卒業イベントで披露された、最後のソロ曲『立ち止まる手前で』の歌詞に、どうしても気になった一節がある。というか、その一節のあと、筆者は会場で涙が止まらなくなった。それが、「この私の4年間は 意味のある道だった」というフレーズである。

 この歌詞を聞いたとき、本当にそうなのだろうか、あるいは今そう言い切れるのだろうかという疑問が生じた。いくら当て書きとはいえ、そこには作詞者・秋元康という存在が媒介する。

 たしかに、彼女に関する曲で言えば『乗り遅れたバス』は当て書きだし、欅坂46全体で言えば『W-KEYAKIZAKAの詩』も明らかに当て書きといえる。作詞家・秋元康という存在に目を向ければ、『恋するフォーチュンクッキー』もそう言えるのかもしれない。作詞家・秋元康は、そこに物語があるときに、特に良い詞を生み出しているように思う。

 ただ、こと卒業に関する曲になると、一つだけ、大きなバイアスがかかる。乃木坂46橋本奈々未卒業シングル『サヨナラの意味』、西野七瀬卒業シングル『帰り道は遠回りしたくなる』では、好きだった、そして成長してきた「今の場所」からの別れと、「新しい場所」に向かわなくてはいけない気持ちとの葛藤が描かれている。秋元康が、グループ内騒動で卒業することになった山口真帆たちに向けて、卒業公演に際して書き下ろした『太陽は何度でも』という曲でさえ、「今も大好きなこの街を 今夜出ようと決心した」と、「街」という表現にとどめられてはいるが、こういった表現がみられる。

 アイドル人生というものに意味がある、という前提が崩れることは、アイドル産業から収益を得る作詞家にとって、極力避けなければいけないことだから、という説明が適切かどうかはわからないが、そういう方向にバイアスがかかっている。

 

 さて、ここで「アイドル」というものがどういう形態をとって存在しているのか、それを簡単に整理しておきたい。昭和のアイドルが、「歌手」という世界を中心に、そこからバラエティやそのMCに勢力を広げていったのとは対照的に、平成のアイドルは、「歌手」という世界を中心としているわけではない。ドラマやグラビア、バラエティーに始まり、スポーツ、アナウンサーに至るまで、様々なものからアイドルは生まれうるようになってきた。*1そして、AKB48を始めとする多数のアイドルグループによって、アイドル戦国時代という時代を経験したことによって、芸能界の女性タレントは飽和し、アイドルというものが半ば芸能界での下積みとして機能するようになっていった。たとえば、アイドルアナウンサーというものが登場して久しいが、アナウンサーという定職に至るまでにアイドルを経験した、元アイドルのアナウンサーという人まで出てきている。(市來玲奈斎藤ちはる紺野あさ美がその例)

 ここまでは、アイドルが「夢への通過点」であり、その先にある「夢」へと歩みだすことが卒業、という像を維持していると言える。ただ、最近のアイドルは、もはや「夢」となっている、という面さえ見られる。同性アイドルを推すファンの延長上に、アイドルになることが「夢」となっていく人たちも多くいて、指原莉乃柏木由紀はその典型であり、今回の話題で言えば、長濱ねるはアイドルになるきっかけを伊藤万理華から得ているわけだし、けやき坂46のうち何人か(たとえば濱岸ひより)はアイドルになるきっかけを長濱ねるから得ている。

 こういった「夢」の連鎖が起こることは、アイドルの物語性を一層強めることになり、さらにはアイドルが「夢への通過点」ではなくなっていくことになっている。もちろん、アイドルになることが「夢」であった人が、次の舞台を見つけて旅立っていくこともあるのだが、先程述べたように、女性タレントは飽和している。その中で、次の舞台への旅立ちを留保した仕組みとして、乃木坂46の1期生のような、アイドルと女優、アイドルと作家の兼業に近いようなものができているし、さらには、乃木坂46が卒業したくないと思わせる「居心地のいい空間」として機能するようになった遠因となっているようにも思う。

 

 伊藤万理華もその傾向があると言えるかもしれないが、特に長濱ねるは、「人前に出ることから少し距離を置きたい」というように、アイドルの先にあるような舞台とはまた別の舞台へと行きたいと考えているように思う。そこで、アイドルをしていたという経験が意味のあるものとして機能するのか、ただ「放電」していただけの期間にはならないのだろうか、という疑念が生じざるを得ない。アイドル人生がただの放電期間だったとしたら、それはどれだけ苦しいことか、想像してもしきれない。その意味で、秋元康が書き、長濱ねるの口から発せられた「意味のある道だった」という歌詞を聞いたとき、涙が溢れてきてしまった。

 ただ、会場で流れた映像を見る限り、彼女自身がアイドル人生を通して変わったということは伝わってきたし、今の時点では「意味のある道だった」と思っているのだろうと思う。だからこそ、10年後、20年後になっても、1339日間のアイドル人生がどこか遠回りでもいいから「意味のある道だった」と言える人生を歩んでほしい。 

(文中敬称略)

*1:たとえばこのような一連の論考として、 https://taishu.jp/articles/-/58014 がある

「太陽は何度でも」という一度きりの「芸術」

 タモリがメディアの表舞台からフェードアウトしていくこの時代、芸は文脈に支配されている。たとえば、指原莉乃が2013年頃、一時期多用していたものとして、「好きな男性のタイプは?」と聞かれた際の返答として、「秘密を守る人」という一笑いの取り方があった。おそらく男性側の暴露によってスキャンダルが明るみに出て、ピンチを経験することになる指原が、この返答をする。その文脈を共有しているからこそ、そこに笑いが生まれる。

 この現象は、笑いだけでなく芸術においても起こっていることであると言える。たとえば、高山一実の『トラペジウム』という小説を読んだとき、そこに、「現役アイドルが書いた表現や物語」という文脈を取り除いて読むことは難しい。同じように、現代において有名な画家の絵や作曲家の音楽を聞いたとき、それを無下に批判することは難しいし、絵や音楽に付けられたタイトルから離れてその作品を鑑賞することは不可能であると言ってもいい。

 もちろん、こういった文脈依存の芸が、教養や文脈理解といったものを要求するという点で批判の対象となっていることは事実かもしれないし、赤塚不二夫タモリはそれに対抗してきたと言ってもいいのかもしれないし、筆者も文脈のない芸が見たくなるときがあるが、それでも人は文脈に頼らずに芸を理解することは困難だし、文脈にこそ芸の影響力が増大していく要因がある。

 

 さて、非常に暗い話題なのだが、2019年5月18日に行われたNGT48の「太陽は何度でも」公演のアンコール前最後に披露された曲が、『黒い羊』であったことが話題になっている。もちろん、振り入れもさほど時間をかけられるわけでもないだろうし、そのパフォーマンスそのものの完成度だけの話をすれば、確かに欅坂46の『黒い羊』のパフォーマンスのほうが完成しているという主張は否定しがたいものではあると思う。しかし、それだけをもって、その価値を判断するのはあまりにも早計と言ってもいい。

 ここで、一つのツイートを引用しておきたい。

振り付けの差異からは、欅坂46が表現しようとしている歌詞世界と、山口真帆たちが表現しようとしている歌詞世界の差異が見て取れる。

 歌詞解釈は人によって多様でありえる。フルコーラスの『黒い羊』の歌詞に対する筆者の解釈は、「黒い羊」である「僕」が、自己内の葛藤を経験し、他者からの批難を受けながらも、最終的には自分の意志によって「ここ」にいることを肯定する、というものであって、そこに自己を肯定してくれる「救世主」の存在はない。

 山口真帆たちが表現しようとしている歌詞世界は、これに近いものなのかもしれないが、念のため、TVサイズで披露されたことに気をつけておきたい。この曲が精神的消耗をするものであり、加えて彼女たちの置かれた状況も考えれば、肉体的・精神的・スキル的な観点、あるいは権利上の関係から、フルコーラスで披露することが不可能だった、という可能性もあるだろう。しかし、逡巡する中での表現とはいえ、強い印象を持っている、2番サビ前の「全部僕のせいだ」がないことは重要であると言ってもいい。

 そして、現実世界においては、「ここ」にいることができずに「ここ」から去っていく去り際の曲として歌われていることと、完璧にとは言えないまでもリンクしている。そういうように、現実世界の文脈の中で歌詞世界を表現することによって、その表現はパフォーマンスの完成度という次元とは関係なく解釈されることになる。

 もちろん、山口真帆たちの『黒い羊』の表現を一連の事件という文脈から離れて解釈することができないのと同じように、欅坂46の『黒い羊』の表現もまた、欅坂46のメンバーの行動という文脈と離れて解釈することはできない。そこに生まれるものを、ものによっては「憶測」と呼ぶのかもしれないが、矛盾が起こらない限りにおいて、それは一つの解釈として(少なくとも場末のブログで書くくらいなら)許容されるものでもある。たとえば、『黒い羊』のMVで手紙を読みながらスーツで一人階段を降りる長濱ねるの姿を、2019年3月7日の卒業発表以降、卒業という文脈と切り離して解釈することはできない。

 

 話を戻して、山口真帆たちの『黒い羊』の表現とはいったい何だったのだろうか。

 比較のために、2019年4月26日にミュージックステーションで披露された槇原敬之の『世界に一つだけの花』を聞いて思ったことを述べておきたい。あの『世界に一つだけの花』は、確かに歌としてはSMAPよりも上手だったかもしれないが、何か得体の知れない違和感があった。本来そこで歌うべきSMAPがいない、という違和感もあるのかもしれないが、やはりSMAPの『世界に一つだけの花』は、それぞれがそれぞれの、「オンリーワン」のやり方で長いアイドル人生を生きようとしていたSMAPだからこそ、鑑賞者が歌詞のメッセージ性をより強く持って受け止めることができたのではないだろうか。

 しかしおそらく一回だけ、SMAPの『世界に一つだけの花』が、違う意味によって解釈されるパフォーマンスがあった。2016年12月26日の『SMAP×SMAP』最終回の『世界に一つだけの花』だ。声の震えとか、力の入り方とかいう細かいことは正直言って分からないのだが、中居正広が、後奏手前で手を振り始める直前、5本の指を1本ずつ折って数えるシーン、そして幕が下り、カットがかかった後、中居が後ろを向いて涙をこらえるシーンは、明らかに今までのパフォーマンスとは異なっていた。このパフォーマンスには、本当は「オンリーワン」であることを肯定し、体現していたはずの5人が、別々の道へと分かれていく、その別れの前の最後の撮影であるという文脈がある。このことによって、『世界に一つだけの花』が、「オンリーワン」を目指し続けることと、SMAP(をはじめとする男性アイドル)が終わりのないアイドルであることの矛盾を感じさせるようなものになっていたのだろう。

 話を戻して、山口真帆たちの『黒い羊』の表現は、確かに「黒い羊」となり「厄介者」と批難される存在となってしまったのかもしれない人たちが表現するという文脈において、気持ちなのかアイデンティティーなのかはわからないが、その象徴としての彼岸花を踏みつけられ投げ飛ばされる「救世主」のいないオリジナルの振り付けと合わせて、その迫真性が高まったのだろう。*1

 

 欅坂46の『サイレントマジョリティー』の発売後、しばらくの間なされた批判として、「与えられた歌詞を歌うグループの「君は君らしく」には現実味がない」というものがあるが、この批判は的を射ている部分もあり、確かに、彼女たちは、良くも悪くも職業としての表現者であるし、その上で、表現力が突出しているのだろう。*2少し話を単純にしすぎているかもしれないが、恋愛禁止のアイドルが歌う恋愛ソングに心がこもるはずはないとしても、その表現として歌詞世界を表現するパフォーマンスをすることはできる、ということに似ている気がする。もちろん、彼女たちも歌詞世界と自分を重ね合わせずに歌詞世界に入ることは難しいだろうし、『不協和音』に代表されるように、若者が誰しも持っている、そしてメンバーが持っていそうな感情の一部分を拡張して描くことが、欅坂46のシングル表題曲の傾向ではある*3から、単純に「職業」だと言い切ってしまうことはできないが、それでも、先にあるのは楽曲である。

 しかし、「太陽は何度でも」公演で表現されていた『黒い羊』は、自己の感情や世界を表現したいという願望が先にあって、それを表現する手段として適した楽曲が選ばれているのだろうと推察できる。

 この2つは、表現の形として明らかに異なるし、後者の表現の文脈をある程度共有している鑑賞者は、その表現から「絶対にそのときのその人にしかできない」ものを感じ取ることによって、その絶対性が強まっていく。もちろん、2つの表現の形のどちらも否定されるべきものでもなければ、比較されるべきものでもないと思うが、筆者の感想を述べておくと、欅坂46の『黒い羊』は、何度かパフォーマンスを見る機会があるなら何度か見てみたいと思うが、「太陽は何度でも」公演の『黒い羊』は、一度きりでいいし、一度でも十分なほどの衝撃を持っていたと思う。

(文中敬称略)

*1:ただ、「ここ」にいる意志を貫くことができる状況になかったという点で、歌詞とは明確な矛盾がある。そういった細かい差異は、歌という表現においては気にされないことが多いのかもしれない。

*2:生駒里奈のインタビューから推察すれば、『FNSうたの夏まつり』でセンターをつとめた彼女は、自分には表現できていない部分があると感じているようだ。

*3:実際、『不協和音』はセンターに(歌詞世界への没入などによって)精神的な疲弊をもたらすことから「魔曲」と呼ばれることもある

欅坂46 3rdアニラ武道館公演 (2日目) の感想

 武道館で行われるライブを見るのに、筆者はなぜだか大阪に向かっていた。推しの最後となるかもしれないライブを見るためには、仕方ない話ではあるのだが。

 端的に感想を述べると、濃い100分だったし、一瞬映る推しの表情を見るとペンライトを振るのを忘れるくらいには嬉しかった。と同時に、「微笑みが悲しい」という気持ちにもなった。

 

 今回のライブの大きな世界観としては、3rd Year Anniversary Live 大阪公演(以下、大阪公演)の最後の曲から始まり、そのアンコールとして3rd Year Anniversary Live 武道館公演(以下、武道館公演)を位置づける、というものであった。大阪公演が比較的明るい曲が多く、映像も多いセットリストだったのに対して、武道館公演は、ユニット曲やソロ曲を含まず、メッセージ性の強い曲の多いセットリストで、かつ(1期生)メンバー全員がほぼフルでパフォーマンスをし続けるというものであった。武道館公演(のLV)だけを見た人間としては、これはアイドルグループなのか?という疑問を抱くほど、アイドルグループ感はなかった。一方で、大阪については、様々な評を見る限り、良くも悪くも逆にアイドルグループ感のある演出だったらしい。セットリストだけを見た筆者も、映像等を使いながらの演出は、アイドルらしいものであったのだろうと思う。

 ここで、改めて『欅共和国2017』を見返してみると、そこには明らかにアイドルらしさとアイドルらしくなさが共存している。ユニット曲やけやき坂46の曲では、アイドルらしさが感じられる一方で、欅坂46全体での楽曲では、それとは程遠いアイドルらしくなさ、あるいはアーティストらしさが感じられる。けやき坂46というグループが、欅坂46との違いは何か、という問いとともに成長してきたとすれば、後にたどり着く「ハッピーオーラ」という答えへとつながる過程を、そこに感じ取ることができる。しかし、それは同時に、欅坂46の世界観を「クール」として決定させるものでもあっただろう。そして、「ハッピーオーラ」、つまり見ている人を笑顔にさせる力というものは、アイドルにおいて根源的なものなのではないだろうか。

 たしかに、けやき坂46の「アイドルらしさ」と大阪公演の「アイドルらしさ」が同じものである保証はないのだが、けやき坂46が日向坂46として完全に独立した後、欅坂46の中に「アイドルらしさ」を求めようとした結果が大阪公演なのだとすれば、「アイドルらしくなさ」との闘いがそこにあるという点では共通している。

 しかし、平手友梨奈は『ROCKIN'ON JAPAN』2019年6月号で大阪公演に対する違和とも言えるものを述べているし、「欅坂は、ずっと、世の中に何かを届けていくグループだと思ってるから」ともコメントし、大阪公演の演出に関わっていなかったこと、武道館公演の演出に関わっていることを明かしている。もちろん、平手友梨奈の意見によって全てが決定されているわけでないはずだが、武道館公演には「アイドルらしくなさ」へと向かっていく方向性があった。

 蛇足的ではあるが、けやき坂46が目指すものを手探りで探し、見つけ出し、向かっていくリアリティーショー*1なのだとすれば、それは独り立ちすることができなかった「弱い」個人の物語であって、欅坂46(の平手友梨奈)のように明確な自己像へと向かっていく「強い」個人の物語とは対照的である、ということも、大きな差異の一つであり、前回の記事で述べたように、後者はアイドルの「物語」とはなりにくい、ということにも、「アイドルらしくなさ」へと向かっていく方向性がある。

 そんな、グループとしての「アイドルらしくなさ」とは対照的に、グループの中には「アイドルらしい」個人が存在している。ファンの贔屓目かもしれないが、長濱ねるもまた「アイドルらしい」個人であっただろう。そういう点で、「アイドルらしさ」と「アイドルらしくなさ」の共存が、欅坂46に見られたグループの形だったのかもしれないが、けやき坂46の独立によって、そして、武道館公演のようなユニット曲・ソロ曲なしの演出によって、欅坂46というグループ像が、徐々に「アイドルらしさ」から離れていっているような気がする。

 その公演で一瞬見られる推しの姿をもって、幸せを享受することはできるし、握手会に行けば、推しと会話することができる。そこにあるのは確かにアイドルとしての姿ではある。しかし、パフォーマンスやMVにおいて、「アイドルらしくなさ」へと向かっていく方向性があるとすれば、それはアイドルなのだろうか。

 そう考えた時、平手友梨奈が思い描くグループへの「恋」と、長濱ねるが思い描くグループへの「恋」の、「どっちか一人」が「もし叶ったらどうなるの?」という思いを持ち、そして、その2人の微笑みを見て、「微笑みが悲しい」という感想を抱いたし、それでも「大切な二人」でいてほしいという思いはある。

 

 さて、ライブの感想を述べるのにこんな話を出すのも良くないかもしれないが、元乃木坂46生駒里奈がセンターを務めた『FNSうたの夏まつり』(2016)での『サイレントマジョリティー』の話をしておきたい。AKBグループ、乃木坂46欅坂46から集められたメンバーが、選ばれた曲をパフォーマンスするという企画であったと記憶している。彼女はその後のインタビュー*2で、欅坂46と自分たちの対比として、10代なりの「レジスタンス」と「過去にレジスタンスだった人たち」という像を提示し、それによって表現に対する違和感が生じていると述べている。

 そこで、10代なりの「レジスタンス」として思い浮かべられ、よくセンター・平手友梨奈と比較される人間として、尾崎豊について考えておきたい。尾崎豊は、10代のうちから大人たちへの反抗をテーマに曲を作り、熱狂的なファンを獲得するほどの人気であったが、20歳以降は突然の渡米、覚せい剤取締法違反による逮捕など、生活として混迷を極めていき、最終的には26歳で肺水腫により亡くなる。2個ほど前の記事では尾崎豊の曲の歌詞について取り上げたが、たしかに、尾崎豊の登場以前と登場以後では、人々の意識に大きな違いがある。尾崎豊という「レジスタンス」のモデル、そしてその栄枯盛衰のモデルが生まれたということだ。音楽界では、尾崎豊に限らず、魂を売り渡したかのように、圧倒的な表現の才能を持って世間に名を轟かせるも、それが長くは続かなかった、というアーティストは数多くいる。そのことに対する認知は、平手友梨奈の中にもあるだろう。たとえば、『ROCKIN'ON JAPAN』2017年4月号での「今は今しか出せないから、今の私を見てください」や、『SONGS』 2017年4月6日での「(5年後は)結婚しているかなと思います」が、その現れだと考えられる。

 ただ、平手友梨奈を中心とするメンバーの様子が作詞者や作曲者、振り付け師を含む演出家に影響を与えることによって、楽曲の世界観が作られているとはいえ、欅坂46は作詞も作曲もしない、という点で尾崎豊たちとは決定的に異なる。「レジスタンス」という言葉は『サイレントマジョリティー』についての表現かもしれないが、ともかく若者の感情の表現者としての欅坂46平手友梨奈が、どこまで続いていくのか。そしてそれは「アイドルという概念の拡張」としてなのか、「アイドルではない形」としてなのか。推しが卒業した後も、そのことには興味がある。

(文中敬称略)

*1:例えばこれは、「日向坂46ストーリー~ひらがなからはじめよう~」で感じられる

*2:https://news.dwango.jp/idol/17717-1608